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伝説になるはずだった幻のラリーマシンTOYOTA 222D

WRCにおけるモンスターというと、グループBを思い浮かべる人が多いのではないだろうか? では、更にその先に用意されていたグループSはどうだろう? 開催まで漕ぎ着けなかったグループSと、そこに登場するはずだったマシンをお見せしよう。

TEXT / 古賀敬介 PHOTO / 神村 聖
SPECIAL THANKS / MEGA WEB(http://www.megaweb.gr.jp/)

伝説になるはずだった幻のラリーマシン

1982年に導入されたグループB規定は、WRCを根底から大きく変えた。ベース車を200台製造し、それをもとに20台のラリー専用モデルを製作すれば良いという新規定は、自動車メーカーのコスト負担を軽減し、開発自由度を飛躍的に高めた。その結果、欧州メーカーは大パワーを発揮するエンジンを軽量なボディに搭載したモンスターマシンを次々と投入。WRCは「純レーシングカー」の時代へとシフトしたのである。

ランチアはストラトスHFの成功体験に基づきミッドシップにこだわり、スーパーチャージドエンジンを搭載する037ラリーを開発。アウディは、ターボエンジンとフルタイム4WDのクワトロで新時代を切り開いた。そしてプジョーは、その両方の長所を併せ持つミッドシップ4WD+ターボというパッケージの205T16を、満を持して投入。WRCは、欧州メーカーによる技術大戦の場となったのである。

そのような状況で、トヨタはエンジンこそターボながら、フロントエンジン後輪駆動という昔ながらのメカニズムのセリカ・ツインカムターボ(TA64)でWRCを戦い、サファリラリーでは84年から3連覇を果たすなど限定されたラリーでは活躍していた。しかし、トヨタはWRC全戦で優勝を狙えるマシンを渇望しており、密かに新世代のグループBマシンの開発をスタートさせた。それが、開発コード「222D」である。

222Dの開発が始まったのは、84年の中ごろ。205T16が実戦デビューした年である。その頃には大パワーを受け止めるためには4WDは必須であり、しかも運動性能の向上にはミッドシップが最適であるという考えが、WRC技術者の間では共通認識となっていた。それをいちはやく具現化したのがプジョーであり、重量増に直結する4WDに懐疑的だったランチアでさえも、ミッドシップ4WDのデルタS4の開発を開始。トヨタが、セリカ・ツインカムターボの後継車を、ミッドシップ4WDターボとしたのは当然の流れである。

222Dの開発は日本主導で行なわれたが、本当ならば世界戦略車であるカローラをベース車にしたかったようだ。しかし生産台数が200台とはいえ特殊なカローラを作るのはハードルが高かった。そこで、84年に発売された初代MR2をベース車に選んだのだ。MR2は後輪駆動ではあるが、ミッドシップという点では222Dのコンセプトと共通点がある。そこでMR2に白羽の矢が立ったのだが、実は最終的に200台の生産を検討していたクルマはMR2と完全に別モノになる予定だったという。222Dの外観はMR2によく似ているが、共用部品はボディ外板の一部のみ。実際に市販される時には、MR2とは異なる外観になるはずだった。

エンジンは、新世代の直列4気筒である3S-Gに、ターボを追加した3S-GTを搭載することがはやくから決まった。最高出力は500馬力超だったが、その後に搭載されたグループCではさらに高い出力に到達していたから、決して無理な値ではなかった。

エンジンの搭載位置はもちろんミッドで、搭載方向は当初MR2と同じ横置きからスタート。そして最初のテストカーは、85年5月にドイツTTEのスタッフが見守る中オランダでシェイクダウンされた。横置きのエンジン自体は何も問題はなかったが、周囲を補機などに覆われラリーで重要となる整備性が非常に悪かったため、途中から縦置きエンジン+縦置きギアボックスに大幅設計変更された。そして、縦置きとなったエンジンを吸収するために、ホイールベースも拡張された。そのため、222Dの開発車両には、エンジン横置きの前期型と縦置きの後期型の2タイプが存在する。

そうこうするうちに、WRCではグループBよりもさらに開発自由度の高いグループSに規則が変わる事がアナウンスされ、トヨタは222Dを開発しながらグループS構想の検討を進めた。そしてエンジンに関してはターボの3S-Gではなく、新開発の自然吸気エンジンを搭載する事が決まった。そのプロジェクトは別に粛々と進行していたが、86年にWRCで連続した死亡事故によりグループBと、その先に予定されていたグループSの両方が廃止される事に。BとSのつなぎ役を担うはずだった222Dは突然活躍の場を失い、すでに開発されていたプロトタイプカーは多くが廃棄処分され、生き残った数台は博物館で余生を送ることになったのである。

フロントの形状は大きな変更を受け、リトラクタブルヘッドライトはカバーの付いた固定式となった。更にその下には大型のフォグランプが備わる。
ルーフエンドにはエンジンルームに空気を取り込むエアインレットが備わる。
窓は塗りつぶされ、下側にフィンタイプのエアアウトレットが備わる。また、ウイング側のエアインレットの下にはラジエター、オイルクーラーが見える。
装着していたホイールはスピードライン製。おそらくは展示用であろうタイヤサイズは195/65VR16。
フロントボンネットの左右に備わるエアインレット。今では空気抵抗になりそうな時代を感じさせる形状で、大きさはやや控えめ。
巨大なフロントフェンダーの後ろには、ブレーキの熱を逃がすために設けられたエアアウトレットが備わる。
巨大なリアウイング、センターだけでなくサイドにも熱対策のために施された数多くのスリットなどに加え、全幅がワイド化されるなど迫力あるディテールのリアビュー。元となったMR2の面影はかろうじて残っている程度だ。
無骨とも言えるそっけないデザインのマフラーは左リア後方の1本出しのみ。その横に備わるのはターボのブローオフバルブから出される排気用パイプとなる。
大きく膨らんだリアフェンダー、リアクォーター、リアウイングとありとあらゆるところに冷却のための穴が開く。
MR2の面影が全く見られないほど手の入れられたコクピットまわり。走ることに必要なもの以外はすべてが剥ぎ取られ、シフトまわりなど剥き出しになっていて潔ささえ感じるほど。
シートはTRD製のフルバケットシートが備わる。なぜかブラックとグレーの2トーンが採用されているのがオモシロイ。
ラリーコンピュータにトリップメーター、各種ヒューズに各種スイッチ、無線機にメーターと、ナビの仕事の多さを物語る。
別車ではあるが222Dのエンジンルーム。パイプフレームの構造がよく分かるカットでもある。上部の分厚いインタークーラーに複雑に絡むエキマニが印象的。

SPECIFICATION
TOYOTA 222D
全長×全幅×全高:3985×1880×1290mm
ホイールベース:2470mm
車両重量:1023kg
エンジン形式:直列4気筒DOHC+ターボ

総排気量:2158cc
最高出力:500ps
サスペンション(F&R):ダブルウィッシュボーン
ブレーキ(F&R):ベンチレーテッドディスク
タイヤ(F&R):195/65VR16

TOPICS

グループSとは?

1985年の9月、当時WRCを統括していたFISA(現在のFIA)は、グループBに代わるグループS規定の導入をアナウンスした。その目的は、開発自由度をより高めて車両コストを下げること。グループBのベースモデル200台+エボリューションモデル20台という最低生産台数さえもクリアできない自動車メーカーのために、10台のプロトタイプを製作するだけでWRC出場が実現するという規則だった。ただし安全性を高めるためにエンジンの最高出力は300馬力に抑えられ、そのため各メーカーはハンドリング性能の向上がより重要になると判断。新素材を多用した軽量化技術の追求により、重心や重量バランスを好転させようというコンセプトが主流となり、空力的にも数々の斬新なアイディアが投じられたプロトタイプの開発が進んでいた。しかし86年に多発した死亡事故により、グループS構想はグループBと共にお蔵入りとなってしまったのである。

TMG取材の際に訪れたチャンス!
222D同乗試乗!

グループBの消滅後、博物館で「歴史的展示物」となっていた222Dに、同乗する機会を得た。ドイツのTMG(旧TTE)に保管されていた初期型の222Dを、イベントで走らせるためにTTEの名メカニックだったジョン・デイ氏がレストア。そしてTMGを取材で訪れた際、その敷地内で助手席に乗せてくれたのだ。

ドライバーとしてのウデも確かなデイ氏は「様子見だよ」と言いながらアクセル全開。パワーは絞られ400ps程度とのことだったが、それでも軽いボディには十分で、ドッカンターボ気味の荒々しいロケット加速に身体がシートにめり込んだ。エンジンや駆動系が発する振動や音は凄まじく、実際のスピード以上に速く感じられた。あくまでも敷地内だから限界コーナリングは体験できなかったが、挙動はかなりシャープでやはりミッドシップなのだと実感。デイ氏によれば開発当時は挙動が非常にピーキーだったという。

もし実際にWRCに出ていたら、いったいどんな走りをしたのだろうか? 非常に興味深い。

PROFILE/古賀敬介

WRCに魅せられモータースポーツ専門誌へ就職。その後フリーランスとなり、モータースポーツ専門媒体に寄稿。ティーポ誌で連載中のWRC放浪記のライター&フォトグラファーでもある。