OTHERS

<その他コンテンツ>
ニューカー、ヤングタイマー、クラシック、オーナー、ライフスタイル、
カタログ、100ドロ、ミニカーなどなど
CLASSIC&YOUNGTIMER

英国選手権初の女性王者が振り返るG15との蜜月GINETTA G15 “Ex-Alison Davis”

20年ほど前から我が国に棲息している黄色いジネッタG15。そのボディにはレーシングステッカーが貼られ、リアフェンダーにはレースにおける勝利を意味すると思しき星印がずらりと並び、小さなボディに凄みを与えている。誰もが親しみを込めて“アリソン・デイヴィス”と呼ぶこのG15のヒストリー。元オーナーのアリソン・デイヴィス女史が自ら語る黄色い愛機、そしてモーターレーシングに傾倒していた熱き時代。

TEXT / Alison Davis(アリソン・デイヴィス)/吉田拓生(翻訳) PHOTO / 篠原晃一

英国選手権初の女性王者が
振り返るG15との蜜月

スターティンググリッド上に佇むジネッタG15とアリソン・デイヴィス。傍らに立っているのがクリスとロジャーのデイヴィス兄弟である。1000ccのG15に対し、左奥はTVR、右奥にはトライアンフTR7が陣取っている点に注目。これはアリソンと彼女のジネッタがクラスを越えた非凡なスピードを秘めていたことの証明写真である。
ジネッタG15を駆って排気量の大きなマシーンや男性ドライバーを打ち負かしたアリソン・デイヴィス。

私は運転免許の取得とほぼ同時にモーターレーシングに興味を持ち、オースチン・ヒーレー・スプライトを手に入れました。このクルマで地元のクラブが主催するラリーやスプリント、そしてヒルクライムなどに参加しはじめたのです。するとすぐに男友達たちが私の活動に興味を示し、もっとパワフルなマシーンを貸してくれるようになりました。レースにおける私の成功はそこからはじまったのです。

ロジャーと結婚した直後、私たちは少ない予算の中でフランク・ウィリアムズからディーバ10Fスポーツカーを購入し、レース参戦を開始しました。F1チームのオーナーとして有名な彼は、まだF2のチームを持つレーシングカー・ディーラーだったのです。

私たちのチームにはロジャーの兄であるクリスが加わってくれましたが、1969年4月、シルバーストン・サーキットで開催された初レースではエキゾーストマニホールドがひび割れてしまいレースに出走することができませんでした。それから3シーズン、私たちは辛抱強くレースを戦い、マシーンを改善し、BWRDCのグッドウィン・トロフィーを獲得するなどささやかな成功を獲得できたのです。

私が初めてドライブしたジネッタG15は、当時クリスが所有していたロードカーでした。私はこのクルマで、地元で開催されたスプリントに出場したのです。この時リアエンジンのジネッタが示した原始的かつ独特なドライブフィールが、私たちをジネッタのファクトリーへと向かわせることになったのです。モッドスポーツ・レーシングのジネッタG15 をプリペアするため、私たちは専用の軽量ボディなどを含むさまざまパーツをジネッタ社から購入しました。シャシーのセッティング箇所が無数にあることでロジャーたちは頭を悩ませ、また1971年に参戦した当初はタイヤの選択もベストとは言えませんでした。それでも私たちは2 シーズンにわたって大きな成功を収めることができました。当時の私のスポンサーはデオドラント製品のFemfreshでしたが、彼らは私たちのチームの露出に満足していました。

“Femfresh G15″で出場した次の年は、とても競争相手にならないようなマシーンと戦わなければなりませんでした。特にミッドランドのブリティッシュ・レイランド ディーラーがエントリーさせたトライアンフTR7は別格で、彼らは熱心なメカニックたちの功績によって徐々に競争力を増し、私たちの自信を失わせていったのです。それ以降の私はフィアット124やフォード・エスコートでレースを戦い、一時的にジネッタG15からは離れてしまいました。

1979年になると、私たちはプロッドスポーツ選手権に興味を持ちはじめ、再びジネッタG15で参戦することを計画しはじめました。プロッドスポーツ選手権は車輛の改造範囲が狭く、エンジンサイズに応じて厳密なクラス分けがされていました。主催者は各クラスの性能が平等になるように工夫していたのです。例えば、1000ccのG15はスプライトやミジェットと同じクラスBAで、2000ccのトライアンフTR7は1600ccのTVRと同じクラスC。クラスAはモーガンV8や3000ccのTVR、ジャガーEタイプといった具合でした。

ロジャーとクリスはジネッタG15の中古車の広告を見つけそれを手に入れると、私たちは早速レースに挑戦するため”NUL 6L”というレジストレーションを掲げたマシーンのチューニングをはじめたのです。

シャシー、サスペンション、ホイールハブ、ボディ以外のパーツは全て新品に交換しました。ホイール、タイヤ、アルミニウム製ガソリンタンク、シート、ステアリングホイールが新たに組み込まれた他、サンルーフの穴を埋めるためにジネッタのファクトリーからルーフパネルも買ってきました。ひと通りの作業が終了した後、ボディを黄色に塗り替えました。これら全ての作業はクルマ1台分のスペースしかなかった私たちの作業場で行われました。男たちは狭い作業場で、お互いの姿が見えなくなるまでスプレーを噴き、煙が沈静化するまでのあいだ咳をしたり、新鮮な空気を吸うために外へ出たりしていたのを覚えています。パワートレーンは程度の良い中古品を手に入れてチューニングしました。クリスはシリンダーブロックの内面を滑らかに研磨し、全ての部品の公差の限界まで整えました。またカムシャフトのプロフィール変更ではインプ・エンジンの天才と言われたイアン・カーターから多くの有益なアドバイスを受けました。吸気はストロンバーグ150ツインキャブレター、エグゾーストシステムは私たちのために専用に作ってもらったものを装着したのです。

1979年3月3日、完成したマシンはすぐにグッドウッドのコースに持ち込まれ、55周を走ってセッティングを煮詰めました。その翌日、私たちはシルバーストンで開催されたBRDC DB モータース・プロダクションスポーツカー選手権のクラスBに出場し優勝することができたのです。私たちは当初クラス優勝に喜んでいましたが、後に我々のファステストラップがクラスレコードから2.5秒も離されていることがわかり、がっかりさせられました。

シルバーストンのレース後、再びテストを行い、サスペンションやタイヤの空気圧調整、点火タイミングの狂いを改善し、ラップタイムをコンマ5秒短縮できました。シーズン後半になるとダンパーとスプリングレートを更に調整することでシルバーストンのラップレコードに0.5秒まで近づくことができたのです。

シーズンが終わると、8回の優勝と10回のファステストラップを記録しており、私は BRDCプロッドスポーツ・チャンピオンになっていました。つまり英国選手権で優勝した最初の女性ドライバーになったのです。ところが皮肉なことに、BRDC選手権で優勝し、会員資格を取得するための条件をクリアしたのに、私が女性であるという理由でBRDCへの加入は認められませんでした。

シーズンオフを迎え、ロジャーとクリスはマシーンをほんの少しこぎれいにして、エンジンのリビルドを行い 1980年シーズンに備えました。ところが私たちがスキー休暇から家に帰ってきた時、ジネッタG15が1980年シーズンの選手権に参加できるクルマのリストから外されていることに気づいたのです。

私たちの速さやチューニングについて快く思っていない人たちがいることは知っていました。それでも、私たちのラップタイムはプロッドスポーツの初期に記録されたものより遅かったのです。またホイールやボディパネルをジネッタ社から供給されている点について、私たちがジネッタのワークスチームなのでは? と文句を言ってきた人もいました。ロジャーは、選手権を運営するBRSCCの対し、猶予期間無しに特定のクルマを選手権から締め出すことは出来ないという怒りの手紙を送りました。彼らは理解を示したように見えましたが、しかし1981年シーズンにジネッタG15の参加が許可されることはありませんでした。

私たちはドニントンパークが主催していたプロダクションGTカー選手権に参戦することを決めると、主にタイヤのセッティングに着目して冬の間にラップタイムを詰めることに成功しました。私はいつも予選の2周目にファステストを記録する傾向があったので、ロジャーたちはタイヤのトレッドを数ミリの深さまで削り込み、タイヤの熱ダレに対処していました。これは秘密のトリックでしが、1981年シーズンに私たちはたくさんクラス記録を破ることができたのです。

ドニントンパークの選手権には4つのクラスがあり、ジネッタG15はクラスDに属していました。この新しいカテゴライズはかなりの数のジネッタG15オーナーを引き付けることに成功し、最大24台までのグリッドが埋まったのでした。いくつかのレースではクラスを越えた戦いもあり、私はMGAやMGB V8にも対抗することが出来ました。私は他のジネッタG15たちと手を組んで、排気量の大きなクルマたちと戦い、勝利したのです。

黄色いジネッタG15による参戦は1981年シーズンが最後となりました。1982年シーズンは他の選手権に参戦することに決めたからです。最終戦の後、私はスポンサードを希望してくれた何人かの広告マンと会いました。中でもメリタコーヒーのスポンサードは大きく、私はMGメトロ・チャレンジの資金を満額調達し、3シーズンを戦うことができました。

私たちはメトロ・チャレンジでも多くの成功を収めることができました。イギリスの主要なサーキットはもちろん、ニュルブルクリンクとスパ・フランコルシャンも走り、3シーズン年目にはシルバーストンで2勝、ウェットコンディションのブランズハッチで1勝を挙げることができたのです。

モーターレーシングに没頭していた時代から30年以上が経過した今、ロジャーと私は美しいコッツウォルドの丘に居を構え、3頭の愛馬と共に静かな余生を過ごしています。

改造範囲の狭いプロダクションスポーツカーレースのレギュレーションに合致しているだけあって、インテリアはロードカーにも通じるシンプルな意匠に留まっている。
1000ccのパワーユニットはクリス・デイヴィスがシリンダーブロックを加工し、ダイナミックバランスを取るなどしてファインチューンが施されている。
現在は日本国内のサイドウェイトロフィーに参戦するためにダンロップCR65タイヤを履くジネッタG15。1981年シーズンにはラジアルタイヤでレースをしていたはずである。G15S用の純正アルミホイールは現役当時から履いていたもの。文中にある通り、ジネッタ社から供給されていたパーツかもしれない。
2017年、袖ヶ浦フォレストレースウェイで開催されたフェスティバル・オブ・サイドウェイトロフィーに出走したジネッタG15 Ex-Alison Davis。追いすがるジネッタG4とのランデブーが往時を彷彿とさせる。
33番のゼッケンとAlison Davisの名前が燦然と輝くジネッタG15は、今なお1981年シーズンのレースを戦い終えた時のコンディションに保たれている。デイヴィス家にあった小さなガレージの中でスプレーペイントされたという黄色いボディカラーも当時のオリジナル。このジネッタG15こそ、女性ドライバーによる初の英国選手権制覇を成し遂げた記念すべきマシンである。