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自動車技術&文化史探訪

電動化のなかで揺れ動く今だからこそ振り返る1970年代、嵐の中で成長した日本車

本稿では、1970年代の排ガス対策と燃費削減対策の初期の取り組みについて記してみたい。そのどちらも日本の自動車産業が大きな存在感を示す転機となったからだ。

TEXT / 伊東和彦

電動化のなかで揺れ動く今だからこそ振り返る

これは1973年のシボレー・インパラだが、冒頭に米国車を掲載したのには大きな理由がある。同年、ホンダは厳しい排気ガス規制をクリアしたシビックCVCCを米国で発売したが、これに対してGMのガーステンバーグ社長は、「小さな玩具のオートバイエンジンではうまくいくかもしれないが、私はGMの自動車エンジンのどれにもその可能性はないと思う」と語った。それを知った本田宗一郎社長は1973年のシボレー・インパラ(5.7リッターV8)を現地で調達して空輸。CVCC技術で改造し、EPAのテストで合格させた。それは160hpを発揮し、燃費も向上したといわれている。(GM rchives)

2018年3月5日、広島のホテルで前年12月に95歳で死去した山本健一氏のお別れの会が開かれた。故山本氏といえば、東洋工業(現マツダ)で、ロータリーエンジン(RE)の実用化に取りくんだ技術者として名を残している。NSUヴァンケルから東洋工業が導入した、”未来を担う新エンジン”の特許だったが、実用化までには技術的難問が立ちはだかり、一部ではその実現が疑われるほどだったという。この難局を打開すべく同社内に置かれた開発チームを率いた山本氏は量産化を成し遂げた。その後、1984年から’87年までマツダ社長を務めたほか、会長や相談役最高顧問を歴任している。2017年は、マツダが R E搭載のコスモ・スポーツをデビューさせてから50周年の節目にあたることから、多くのメディアがREの歩みについて多くのページを割いたことは、読者もご承知のとおりだろう。

市場に投入されたRE搭載車は、マツダの大きな柱として搭載モデルを増やしていった。だが、それは順風満帆というわけではなかった。REの特性を生かし、厳しい排ガス対策をいちはやく達成した矢先、息つく暇もなく、石油危機に端を発する市場からの厳しい燃費削減の要求に応えなければならなかった。マツダの技術陣はこれらの難問を解決することで、その後も長くREを生産し続けていくことができた。 1960年代に北米市場でよくできて安価な小型車として好評を得た日本車は、1970年代の前半と中期に押し寄せた、排ガス規制と燃費削減という技術的試練を世界に先駆けて解決したことで、大きく躍進したことは明らかである。その象徴と言えるのが、ホンダCVCCエンジンと、マツダの低公害RE(AP RE)といえると、私は確信している。カー・マガジンのテーマとしてはやや異質な話題かもしれないが、電動化のなかで揺れ動く(私にはそう思える)今だからこそ、1970年代の事象を振り返ってみたいと思った。

マツダに保存されているごく初期のコスモ・スポーツ。(MAZDA)

広島のマツダでREの開発が行われている様子。デスクには故山本健一氏の姿が見える。(MAZDA)

第一弾の試練、マスキー法

現在、『マスキー法』といっても、若い人にとっては耳慣れないだろうが、それはベテランのクルマ・エンスージアストにとっては、心に残る”事件”ではなかろうか。私ごとだが、これから社会に出ようとしていた私にとっては、今後の自動車がどうなるのか、暗澹たる気持ちになった記憶が残っている。

マスキー法(Muskie Act)は、アメリカで1970年12月に改定された大気汚染防止を目的とした法律の通称名で、『大気浄化法改正案第二章』が正式な名だが、提案者のエドムンド・マスキー上院議員に因んで、この通称で呼ばれている。

その内容は、1975年以降に製造する自動車の排出ガス中の一酸化炭素(CO)、炭化水素(HC)の排出量を1970~’71年型の1/10以下するというものだった。さらに1976年以降の製造車では、窒素酸化物(NOx)の排出量を1970~71年型の1/10以下にすることを義務づけ、達成できないクルマは猶予期間以降の販売を認めないとした。これだけでは終わらず、1972年にはさらに厳しくなり、1976年型では窒素酸化物が0.4g/mileと規定された。

当時、この規制値は自動車の排出ガス規制では世界一厳しかったことから、北米のビッグスリーを筆頭にした世界中の自動車メーカーの猛反発にあった。それまでにも、大気汚染による健康被害を憂慮して、なんらかの規制が必要との声が上がっていたことは事実だった。以下にアメリカでの排ガス規制についての動きを簡単にまとめてみた。

1955年:大気汚染法制定。
1960年代初頭:未燃焼ガスの放出を抑制するPCVバルブの装着が始まる。
1963年:議会の大気および水質汚染特別小委員会が大気環境基準を設定することが必要だと提言し、大気浄化法を制定。マスキー議員が取りまとめ。
1964年:「大気汚染の最大の単一原因は、自動車」とマスキー議員が記者会見で述べる。
1965年:自動車大気汚染制御法制定。
1970年代:ニクソン大統領が”公害に対する”宣戦布告”を行い、環境保護庁(EPA)を設置。

この動きに抗するように、GM、フォード、クライスラーのビックスリー(この言葉も消えつつあるが)は、マスキー法はとうてい達成できないと激しく抵抗した。ところが、おりから勃発した石油危機を機に、1974年1月、ニクソン大統領はメーカーが燃費改善を図ることと引き替えにマスキー法の規制を手直しすることを提案した。すなわち排出ガス規制の緩和であった。

話をマスキー法が成立した1970年12月に戻せば、年を追って高性能化の一途に熱を上げるメーカーの耳には、排ガス規制の緊急性は、一部の地域(北米ならカリフォルニア州)を除けば届いている様子はなかったようだ。時はまさにスーパーカーに代表される高性能化に邁進する時代だったのである。とりわけ地元アメリカでは、安価で供給されるガソリンと、快適さのためにはコストを惜しまないユーザーによって、湯水の例えのごとくガソリンを消費し、排ガスを撒き散らしていた。だが、大気汚染は自動車先進国で急速に進行し、社会問題になっていった。

日本の場合

自動車の排ガスによる大気汚染は日本も例外ではなかった。1960年代に入って”マイカー時代”が本格的に到来し、トラック輸送の活発化などによって自動車の普及が進むにつれ、洗濯物が大型ディーゼル車の発する煤(PM:粒子状物質)によって黒ずむとか、咳が出るなどの声が上がっていた。政府も1968年6月には大気汚染防止法を公布し、自動車の排出ガスに対する規制を定め、煤やCO濃度の上限を決めていた。

そうしたなか、1970年7月18日午後1時に東京都杉並区の某私立高校グラウンドで起きた事件によって、人々は排ガスの恐ろしさを知ることになった。運動中の女子生徒19人が、目がチカチカする、涙が出る、喉が痛い、咳が出るなどの症状を訴え、同校生徒や周辺住民など計43人が病院に運ばれたのであった。メディアは、この原因が”光化学スモッグ”という、当時、一般には初耳の公害であると報じ、人々に大きな衝撃と恐怖心を与えた。症状を覚えたのは東京都内でおよそ5200人、埼玉で400人に達したとされている。

光化学スモッグとは、自動車や工場などから排出される窒素酸化物や炭化水素が、太陽光線(紫外線)を受けて、光化学反応により二次的汚染物質を生成された物質のなかの、オキシダントと呼ばれるものが原因であった。その要因は、石油系燃料を燃焼することによって生じるため、クルマが多く空気が乾燥しているロサンゼルスではすでに深刻化していた。日本もこれを受けて、自動車の排ガス規制の強化を図ることになった。

1972年には、中央公害対策審議会が日本でもマスキー法に準じた排ガス規制を行うように勧告。アメリカが及び腰のなか、マスキー法の原案目標値を完全達成するという”世界一厳しい”、『昭和53年排出ガス規制』を到達点に段階的に強化されていった。余談ながら、この排ガス規制ではHCとNOx、COの三種の削減が図られたが、当時はまだ二酸化炭素(CO2)はその対象ではなかった。だれも地球温暖化との言葉を口にしなかったし、二酸化炭素は無害で植物が吸収してくれる、少なくとも私はそうした認識であった。

1970年にはもうひとつのショッキングな公害問題が明らかになった。鉛中毒の疑いであった。同年5月、東京都新宿区牛込柳町の交差点付近の住民を対象にした健康診断で、鉛中毒の疑いがある人が多数存在したと報じられたのだった。その頃のガソリンには、異常燃焼(ノッキング)を防止するために四エチル鉛が混入されており、排ガス中に含まれていた鉛が人体に取り込まれたのではとの見解だった。この健康診断を実施したのは民間の団体だったが、社会問題化したことで東京都が体内の鉛と有鉛ガソリンの因果関係を調査に乗りだし、鉛中毒と疑われた住民には心配がないことが判明した。だが、これを転機にしてガソリンの無鉛化政策が進められることになり、日本では1975年以降、レギュラー・ガソリンは完全無鉛化され、ハイオクタンについても、順次、鉛に代わるアンチノッキング剤が用いられるようになった。 ガソリンの無鉛化は、排ガス浄化のために有効な手段であった触媒コンバーターを装着する場合には、その劣化を防ぐため必要なことであった。

世界で初めてマスキー法をクリアしたホンダのCVCCエンジンは、シビックに搭載されて市販化された。北米市場で好評を博した。(HONDA)

CVCCエンジンのカットモデル。(HONDA)

赤い部分が副燃焼室。ここで濃い目の混合気に点火し、シリンダー内の希薄混合気を燃やした。(HONDA)

1976年5月に登場したアコード。日本と北米市場と日本では、昭和51年排出ガス規制を達成した1.6リッターのCVCCエンジンを搭載。1978年9月には、1.8リッターCVCCを搭載し昭和53年排出ガス規制を達成した。(HONDA)

マスキー法施行への潮目を変えたCVCC

“日本版マスキー法”の完全実施に向かって日本の自動車メーカーが動き始めると、欧米から大きな反発を受けることになった。日本にクルマを輸出できなくなる、非関税障壁だと声高に訴えたのだ。また、日本の産業界からもクルマが売れなくなって不況になり、雇用が失われるとの反発を受けた。だが、そうした声にひるむことなく、規制は遅延することなく進んでいった。結果として、世界各国が及び腰になるなか、この判断が日本車の排ガス処理技術を飛躍的に高めることになった。

そうした中で、ホンダが開発したCVCC(複合渦流調速燃焼方式)エンジンが1972年12月に米国のEPA研究施設でのマスキー法テストで合格第1号となり、世界を驚愕させた。CVCCエンジンは、希薄燃焼のエンジンだが、シリンダー内の希薄な混合気には通常のスパークプラグでは点火ができないことから、別に設けた副燃焼室に濃い混合気を供給して、ここに点火し、その火炎によって主シリンダー内の希薄な混合気に点火しようとするものだった。希薄燃焼によって排ガス中の有害物質を提言し、燃費も高めようというものだった。このため、触媒による後処理の必要はなかった。1973年12月にはCVCCエンジン搭載のシビックが発売されると、日本のみならずアメリカでも好評となり、二輪メーカーとして認知されていたホンダを四輪メーカーして認知させることに大きく貢献した。CVCCの技術は、ビックスリーのフォードとクライスラーが、日本ではトヨタが技術導入した。

当然、アメリカだけでなく、世界中のメーカーが”達成か死か”をかけて研究を進めていたが、その主流は酸化触媒によるもので、浄化性能と引き替えに燃費の悪化が避けられなかった。これが好転するのは、後に三元触媒が採用されてからである。

一方、マツダもREエンジンでマスキー法に挑んだ。もともとREはレシプロエンジンに対して、処理がやっかいなNOxの発生が少なく、その代わり、HCが多いという特徴があった。そこでマツダの技術陣は、サーマルリアクター(熱反応器)を用いる浄化を選択した。これは熱反応器内でHCに空気(酸素)を加えて再燃焼させようとするものであった。この浄化システムを10A型REに装着してマツダR100(日本名:ファミリア・ロータリー)クーペに搭載。1973年2月にマスキー法をクリアした。それに先立つ1972年11月には、日本市場初の低公害車としてルーチェに”AP(アンチ・ポリューションの意)”を発売、順次、APモデルを増やしていった。だが、熱反応器の高率を高めるためには、濃い目の混合気を必要とし、燃費の悪化は避けられなかった。だが、世は、燃費よりも低公害を選んだ。

他の日本メーカーもすべて昭和53年規制に適合する技術の開発に邁進し、日本車は世界一クリーンなクルマとして評判を高めていく。

コスモ・スポーツに次いでファミリア・クーペにもREが搭載された。これはR100クーペと呼ばれる北米仕様車。排ガス浄化システムをマツダR100クーペに搭載し、1973年2月にマスキー法をクリアした。(MAZDA)

1972年11月には、日本初の低公害車として、13B型REを搭載したルーチェAPを発売した。(MAZDA)

RE搭載車の中にはこうしたモデル、Rotary Engine Pickup(REPU)もあった。1974〜77年にアメリカとカナダ市場で販売された。エンジンは4ポート、4バレル・キャブレターの13B型。(MAZDA)

40%の燃費向上を目標にした”フェニックス計画”によって、低迷していたREは復活を果たした。その技術を用いて1978年発売にサバンナRX-7が登場した。(MAZDA)

第二の試練、石油危機

1973年第四次中東戦争が勃発し、10月17日にはOPEC(石油輸出国機構)に属するペルシャ湾岸の6カ国が、原油価格の15%引き上げを一方的に通告することになった。さらに同日に、OAPEC(アラブ石油輸出国機構)10カ国が原油生産を5%削減すると発表。サウジアラビアの国営石油会社も日本に対して原油価格の70%引き上げを通告してきた。メジャー(国際石油資本)に対しても原油積み出し価格の30%値上げや10%の供給削減を通告。世界は第一次石油危機へと突入していった。供給が激減したことで石油価格が高騰。ガソリン小売り価格は数日間で2倍にもなった。日本だけでなく欧州でも、ガソリン節約のために日曜日のドライブ制限や灯油の供給制限などが実施され、スーパースポーツカーの市場は崩壊し、イタリアのメーカーのなかには 倒産の危機に陥ったものもある。

これを機に世界中の自動車メーカーは、マスキー法の達成に向けての排ガス浄化のさらなる向上と、燃費削減という、大きな案件を二つ抱え込むことになる。欧州ではドイツ勢は好燃費と排ガス浄化に邁進し、結果を出していたが、それ以外の欧州製、とりわけ高い性能を売り物にしてきたメーカーは強化された安全対策も重なって、運動性能を大きく落とすことになった。また、アメリカのメーカーは車体とエンジンの小型化によるダウンサイジングを加速させたが、小型の好燃費車を造り慣れなかったことで、しばらくは苦闘を続けなければならなかった。

マツダのAPREは、その燃費性能ゆえに大きく販売を落とすことになった。1973年に約24万台であったものが、翌年には半減してしまった。この苦境を乗り越えるために、マツダは40%の燃費向上を目標にした”フェニックス計画”を立ち上げた。1975年10月には目標を達成させたコスモAPを発売。’78年に発売したサバンナRX-7では、好燃費と高い性能を両立させると、その後、希薄燃REを完成させ、生産を休止するまで、マツダは世界唯一のRE生産会社であった。

これまで述べてきたように、現在の日本の自動車産業が1970年代に立ち向かった試練が、その後の日本車の躍進に繫がったことは間違いない。そうした経験はけっしてムカシ話ではなく、現代のように自動車が曲がり角のあるときには、なにかのヒントになるかもしれないと思っている。ヒストリックカーに親しむとき、ちょっとそうした先人の姿を思い起こしてはいかがだろうか。

トヨタは1975年2月に、ホンダから技術導入したCVCCシステムを用いた19R型エンジンを搭載したカリーナ・4ドアセダンに2000TTC-Vを追加した。そのSOHC4気筒2000ccエンジンはシングルキャブレターを備えて、80PSを発揮。昭和50年排出ガス規制に適合した。(TOYOTA)

イタリアのスポーツセダンも、その魅力を排ガス規制と安全対策の強化によって削がれた。これは昭和51年排出ガス規制に適合したアルフェッタ。排ガス浄化のために酸化触媒と機械式燃料噴射を備えた。(CI AUTO)

欧州のメーカーの多くは排ガス対策に戸惑いがちであった。中でも伝統的なライトウェイトスポーツカーの魅力を削いだ(息の根を止めた?)のは、排ガス規制と、安全対策の強化だった。(BMLC)