OTHERS

<その他コンテンツ>
ニューカー、ヤングタイマー、クラシック、オーナー、ライフスタイル、
カタログ、100ドロ、ミニカーなどなど
自動車技術&文化史探訪

開放感と快適さ、耐候性を求めてオープンモデルの周辺事情

雪国の冬を除けば、秋から初夏までがオープンカーにとって相応しい季節ではないかと思う。今回は"屋根のないクルマ"を主題に選び、思いつくままに写真を多用して話を進めていきたい。

TEXT / 伊東和彦

開放感と快適さ、耐候性を求めて

これは、1966年のシボレーの4ドア・フルサイズ・コンセプトモデル。これだけ開口部が大きいと、剛性はどう確保したのだろうかと考えてしまう。(GM Archives)

気候がコンヴァーティブルの機能を左右した?

『自動車は、かつては地産地消されることを前提としていた』と、私は常日頃から考えていて、この連載でも何度かそう書いて話を展開するキーワードに使ってきた。自動車は、現在では、国境を越えて販売される国際商品となっているが、ある一時期まで、またいくつかの例外を除いて、生産国で使われることを最も重要な前提条件として設計・開発されており、この国の地形や気候、人々の考え方が製品に繁栄されていた。現在では、無国籍になってしまったかといえば、そうではない。国によっての密度の差異はあるものの、イタリア車にはイタリアという国で生まれなくては存在し得ない性能(機構面と心情的な)を備え、ドイツ車にはドイツでなければ備わらない要素があり、フランス車にも日本車にも生産国の姿が投影されている。それが製品の個性となり、人々を引きつける力になっている。

本稿の主題に選んだオープンボディのなかでもコンヴァーティブルと呼ばれるモデルは、アメリカンの地産地消車であるといえよう。むろん、オープンであるからには、国土が広い北米全土、津々浦々に住む人々にとって当てはまるわけではなく、いわば地域限定なのだが。

昔のアメリカ映画を観ていると、必ずといっていいほど、巨大なコンヴァーティブルが登場してくる。雨に祟られるシーンはほとんどなく、いつも幌を開け放ち開放的な使われ方をしている。子供の頃には、なぜTV映画に出てくるアメリカの人たちは、いつもオープンにしたままなのだろうかと訝しく思ったものだ。あとになって、「カリフォルニアは雨が少ないから」という記述をどこかの自動車専門誌で読んで、子供の私は半信半疑ながら妙に納得させられた覚えがある。

復活したオープンカー

ところで、第89回アカデミー賞でチェゼル監督が監督賞を、エマ・ストーンが主演女優賞を得た『La La Land』をご覧になっただろうか。そのオープニングは、フリーウェイの大渋滞のシーンから始まるのだが、車列の中にある日本車が多いことが印象的だった。トヨタ車がかなり多く、カローラやクレシーダと呼ばれる前のマークIIワゴンなどが目についた。さすがにカリフォルニアでは日本車旋風は強いものだと観入っていたら、主演のエマ・ストーンが演ずるミアの足は二世代目のトヨタ・プリウスで、ストーリーではプリウスが米国でよく売れていることに引っかけた、ちょっとウィットに富んだ演出が成されていた。

一方、ミアの友だちで古典的なジャズを追い求めるピアニストのセバスチャンは、1982年頃のビュイック・リビエラ・コンヴァーティブルに乗っていた。もし、1982年で間違いないとすれば、この年、1975年以来、長きにわたって姿を消していたビュイックのコンヴァーティブル・ボディが復活を果たしたときの記念すべきモデルだ。すでに伝統的な”大らかで巨大なアメリカン・コンヴァーティブル”ではなく、日本車とさほどサイズが変わらないコンパクトな姿になってはいたが、それでもアメリカ車のテイストを色濃く残したコンヴァーティブルの復活は、市場では好評であったことあろう。金のないセバスチャンは、足に使うリビエラ・コンヴァーティブルは中古で手に入れたのだろうが、クラシックなジャズを追い求める彼の生き様に相応しい”カーキャスティング”なのだと思えた。

アメリカ車が巨大で華やかだった時期、コンヴァーティブルは解放された自由の象徴だったのかもしれない。1961年ビュイック・エレクトラ・コンヴァーティブル。(GM Archives)

1970年代の半ばに安全基準のために消滅したアメリカのコンヴァーティブルは1980年代になってから復活した。ビュイック・エレクトラ・コンヴァーティブル。(GM Archives)

メルセデス・ベンツ300dカブリオレD。1958年に登場したドイツのカブリオレの最高峰。きわめて重厚なスタイリングだ。(Daimler Archives)

英国ではドロップヘッドクーペ(DHC)と呼ばれる英国の高級車にもオープンボディは欠かせない存在だった(Rolls Royce Archives)

イタリアでは最小のフィアット500から様々なオープンが存在する。これはジュリア・スプリントGTのラインナップに少数(1000台程度といわれる)造られた、ツーリング製のカブリオレ、GTC。(Alfa Romeo Archives)

プジョー403は、1955年にデビューした質実剛健な乗用車だが、こんな洒落たピニンファリーナ製のカブリオレが用意されている。(Peugeot Archives)

Bピラーをロールオーバーバーに使う手法はポルシェが911タルガで採用していた。この広告ではボディの多用途性を訴えている。(Porsche Archives)

ドイツのコーチビルダー、バウアーはBMW”02シリーズ”のカブリオレとして、このようなBピラーを持ったオープンモデルを製作した。(BMW Archives)

VWビートルはその開発段階からオープンモデルのラインナップに加えていた。ドイツ国内はもちろん、北米でもよく売れた。(VW Archives)

ビートルが1974年にゴルフに引き継がれると、1979年早秋のジュネーブ・ショーでゴルフのオープンモデルがデビューした。

ゴルフ・カブリオの手法は多くの新生代カブリオレに採用された。その中でも成功したのがプジョー205だった。(Peugeot Archives)

日本車ではトヨタ・セリカのコンヴァーティブルが成功した。クーペの4世代目から始まり、この6世代目まで続いた。改装を担当したのは、アメリカのASC(American Sunroof Corporation)社で、開閉は油圧式だった。(トヨタ自動車)

なぜコンヴァーティブルは一旦、消えたのか

その理由は安全基準の改訂に他ならない。1973年1月に施行されたFMVSS(連邦自動車安全基準)216では、クルマが転覆した際に乗員の安全を守るための車体強度の基準を定めている。規定では、ルーフに車両重量の1.5倍または5000ポンド(約2270kg )を加え、潰れ(変形量)が5インチ(約127mm)以下と定めている(後にこの規定は緩和された)。一般的なフルオープンのコンヴァーティブルでは、唯一の剛体であるAピラーがこの規定を満たすことができれば、ニューモデルを開発・生産することは可能だった。だが、メーカー各社は、これを機に新たなモデルの投入を諦め、継続生産されていた1976年のキャデラック・フリートウッドを最後に、アメリカ車からはコンヴァーティブルが姿を消し、Tバールーフなどでお茶を濁すことになった。さらに、欧州のオープンモデルも次々に生産を終了していった。

そして、アメリカ車にオープンモデル(コンヴァーティブル)が復活するのは、前述したように1980年代の半ばになってからであった。

復活のとき

ここで話は横道に逸れる。オープンボディは自動車が誕生したときからの基本形だ。クローズドボディは製作することに手間と重量増の問題があったほか、手間暇がかかる木骨構造の場合、クローズドボディではオープンに比べてコストが増し、3割がた販売価格もアップするために、高級車なら許容されても、大衆車では現実的ではなかった。それに加え、その頃の道路事情ゆえに実用的な速度が低かったこともある。オープンでは、幌を張っても耐候性が低い、快適でないとの理由で、次第に乗用車にはクローズボディが求められるようになった。自動車の生産技術も足早に進歩し、全鋼板製ボディが一般的になると、クローズドボディの生産が容易になり、コストも引き下げられていった。かくして、走行中の爽快感が求められるスポーツカー(この場合は軽量の面も)や、スポーティーカーを除けば、オープンボディの選択は乗用車からは除外されていった。詳しくこの話を進めていくと長くなるので、このあたりに留めて、本題に戻る。

オープンカー好きはアメリカだけではない。欧州の人たちもオープンモデルを愛してやまない。イギリスやイタリアではスポーツカーといえばオープンだし、セダンをベースにしたオープンモデルも少なくない。欧州の中でも最もオープンモデル造りに熱心なのは、厳しい冬を迎えるドイツであろう。カブリオレと呼ばれるそれらは、厳しい冬に備えて、外皮1枚だけでなく、内張を持ち、中間に保温材を備えた3層構造の重厚なソフトトップも少なくない。カブリオレでは幌を上げると、セダン並の耐候性と静粛さが得られる。そうしたドイツの人々にとって、アメリカの事情でカブリオレが存亡の危機に瀕するのは、困った問題であったのではなかろうか。

大衆車のVWビートルは、その開発段階からコンヴァーティブル・モデルを用意し、1303Sの時代まで連綿と作り続けてきた。耐候性を重視した幌は、メルセデスにあるような伝統的なドイツ流カブリオレのスタイルを備えた、魅力的なモデルであった。ビートルが1974年にゴルフに引き継がれると、1979年早秋のジュネーブ・ショーでゴルフのオープンモデルがデビューした。読者諸氏も先刻ご承知のとおり、このゴルフ・カブリオは、件のFMVSSをクリアすべくBピラーがロールオーバーバーを兼ねた形状をしており、開放感が削がれるとの意見もあったが、それ以上にVWにカブリオレが戻ってきたという事実に喜びの声が高かった。Bピラーをロールオーバーバーに使うという手法は、これ以前にもポルシェが911タルガで採用していた。ゴルフ・カブリオと同様な事例は瞬く間に欧州のオープンモデルで一般的になったのはご承知のとおりだ。

折りたためるハードトップを考案した歯科技工士

現在、マツダ・ロードスターやダイハツ・コペンにも採用された”リトラクタブル・ハードトップ”は、オープンモデルにさらなる耐候性をもたらしたモデルだ。ベテランのエンスージアストによれば、1957年に登場したフォード・スカイライナーのリトラクタブル・ハードトップを実際に日本の路上で見た時は衝撃的のひと言に尽きたという。その作動には油圧を用いず、数個のモーターによっていた。意欲的な製品だったが、アメリカのコンヴァーティブルではこのシステムが主流にはならなかった。

リトラクタブル・ハードトップが小型車に採用される先鞭となったのは、プジョー206CCだろう( CCとはクーペ・カブリオレの意)。この時、プジョーはこの” CC”のアイディアは過去に先例があるとして、1934年のプジョー401エクリプスを引き合いに出し、プジョーが先駆者であるとのプロモーションを行っていた。401以前にも先例があったが、生産型としてはプジョーが初めて採用したという理由からだ。

401エクリプスに採用されたリトラクタブル・へードトップを設計したのは、フランス人のジョルジュ・ポーラン(1902〜1940年)だった。ポーランは15歳の時に、実父から歯科技工士の元に見習いとして預けられ、ここで研鑽を積んで義歯(入れ歯)製作の名工になった。技工士のポーランが自動車のボディデザイナーになる転機となったのは、自ら考案した、リトラクタブル・ハードトップであった。1925年のことと、ニースにある工房で作業中の時、突然、雷鳴とともに大粒の雨が降り始めた。ポーランは、大慌てでカブリオレの幌を上げようとする人の様子を見て、簡単な操作で扱え、耐候性に優れる、まったく新しいカブリオレのルーフについて考えるようになったという。当時の幌は、現代の幌のように簡単に引き上げられるものではなく、骨組みを立て組み上げてから、幌を張っていくというもので、雨が降ってから作業を始めるとずぶ濡れになることは間違いなかった。1923年に始まったルマン24時間レースにおける黎明期のレギュレーションでは、スタートしたマシンは、ドライバーは誰の助けも借りずにひとりで幌を張り、そのまま一定時間走行することが義務づけられていた。レースの場でクルマの信頼性を向上させたいとする主催者は、幌の操作性と高速耐久性にも目を向けていたことになる。

ポーランは試行錯誤の末、”エクリプス”リトラクタブルルーフを考案し、1932年7月5日、フランス特許第733,380を取得した。ポーランはその製品化に向けて、このアイディアをカロスリ・プールトーに持ち込み、オチキスのシャシーに架装されて1933年のパリ・サロンで公開された。この特許に基づいて、翌1934年にプジョー410エクリプスとして生産化が始まった。それは現代のようにスイッチひとつで開閉できるものではなく、手動式であったが、それでもやっかいな幌を扱うことに比べれば、作業は簡便になっていた。

ちょうどこの原稿の構想を練りはじめたとき、ヒントを求めた私は、かねてから気になっていたマツダ・ロードスターRFに乗ってみようと考え、ちょっと長めに試乗していた。軽快なフルオープンも好きだが、ボタンひとつでクーペからオープンに変身できるリトラクタブル・ハードトップを備えたことで、RFは耐候性に優れたGTとしての性格に変身していた。今から80年以上前にポーランが考案したリトラクタブル・ハードトップは、世界各国でオープンモデルの可能性を拡大したようだ。

1934年にプジョー401のラインナップに加わったエクリプス。リトラクタブル・ハードトップの先駆者だ。(Peugeot Archives)

1998年に公開されたプジョーの”CC”コンセプトモデル。ほぼこのままで206CCとして生産化された。(Peugeot Archives)

ダイハツ・コペンの初代モデル。当時、軽自動車サイズにどうやって組み込むことができたのかと、これを目の当たりにした外国人記者が驚嘆していた。(ダイハツ)

マツダ・ロードスターは先代のNCに続いてNDでもリトラクタブル・ハードトップを採用した。(マツダ)