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自動車技術&文化史探訪

"幌型"の歩みと進化を追うニッポンのオープン

オープンカーと言えばどうしても海外メーカーのものに目が行きがちではあるが、実は国産オープンカーの歴史も戦前からの長い歴史を持っている。今回はそんな国産オープンの歩みを振り返ってみようと思う。

TEXT / 伊東和彦

“幌型”の歩みと進化を追う

ダットサンには2座のロードスターと4座のフェートンに2種のオープンモデルが存在した。これは座間の日産ヘリテージコレクションに収蔵されている1935年14型ロードスター。トランク内にはランブルシートを備え、必要なら4名乗になる。(MCL)

なぜ、オープンなのか

コンバーチブル、スパイダー、ロードスター、ドロップヘッド・クーペ、フェートン、カブリオレ(カブリオ)、トランスフォルマビーレ、デカポタブル、スピードスター、日本では幌型など、屋根を持たないクルマの呼び名は多々ある。そもそもクルマのボディ名称の多くは、自動車の祖、馬車時代から引き継がれたものであり、クルマの基本形も誕生からしばらくのあいだはオープンボディが主流であった。寒さや風雨などから乗員を守る耐候性を求めてクローズドボディが登場したが、オープンカーならではの簡便さや、はたまた爽快さを求めて存在し、進化していることは言うまでもないだろう。特にスポーツカーにとっては、オープンボディであることが重要な訴求点のひとつであり、これはマツダ・ロードスターの成功を見れば一目瞭然だ。

セダン型から派生したオープンモデルにはコンバーチブルの名称がよく使われる。この名称と形態は、かつてのアメリカ車に多く存在した。乗用車をベースとしてルーフのない開放感を与えたことが売り物である。コンバーチブルの言葉の意味を辞書で調べると『複数(通常二種類)の様式に転換できること』とあるから、言葉の意味を考慮すれば両方の美点(使い勝手のよさ)を兼ね備えていなければならないわけだ。

古いアメリカ映画に登場するコンバーチブルを乗り回す人々たちの姿は、たとえば西海岸など暖かく雨の少ない地域では、オープンカーが日常的に”乗用車”として使われていたことを示している好例だろう。コンバーチブル型は、欧州圏ではカブリオレ(仏語で『一頭立て二輪馬車』の意)、英国ではドロップヘッド・クーペ(Dhc)と呼ばれることが多い。

面倒なヤツだと思われるだろうが、私個人の”一般的な言葉のニュアンス”としては、カブリオレやDhcでは、厳しい冬期での防寒性能を高めるため、外皮、中間の遮熱層、そしてセダン並の内張という三層からなるソフトトップを備えて、通年での快適性を確保していると捉えることができる、と言いたい。

よくメディアで見かける記述を引用すれば、厳しい冬の間を耐えたあと、束の間の温暖期を楽しむために、欧州の北国ではオープンボディが好まれるようだ(半信半疑ではあるが)。これに対して、スパイダーやロードスターと名が付くモデルでは、主たる使用形態はオープンであり、ソフトトップは風雨を凌ぐための簡便なものが多い。

そうはいっても、どちらも大きな違いはなく、”オープンカーを指す一般名称”と化していて、厳密に定義づけることはあまり意味を成さないのかもしれない(そういってしまえば本稿は元もこもないが)。げんにロードスターやスパイダーを名乗っていても、立派な内張りを備える例もある。

ニッポンのオープン前史

公共交通を含めて馬車時代をほとんど経験せずに、突然のように自動車文化を歩み始めはじめた日本の自動車だが、こうして『ニッポンのオープン』と題して稿を進めようとすると、これほどのたくさんの自動車メーカーを擁しながら、今さらならオープンモデルが少ないことに気づかされる。

マツダが成功させたことで”ロードスター”の名は日本でも市民権を得ているが、ロードスターの呼称が、わが国で最初に量産車に採用されたのはダットサンであろう。日産自動車がダットサンの生産を始めたのは1933年からだが、同社の前身である戸畑鋳物時代さらに遡って快進社時代に造られたダットサンの乗用車モデルでは、クローズドボディのほかに、”幌型”にはフェートンと呼ばれる4座のオープンと、ロードスターと名付けられた2座席モデルが用意されていた。ここを日本におけるロードスターの起点としても異論はないだろう。

フェアレディ誕生以前の1952年には、50台と少数ながらダットサンスポーツDC-3型が登場している。これは、後にZ-Car成功のキーマンとなるMr.K こと故片山豊氏が追い求めていたスポーツカーへの情熱の賜である。DC-3型では、戦後間もない時期ゆえに専用部品など望めなかったから、手持ちのトラック用シャシーに860cc25hpエンジンを搭載したもので、性能的には乗用車と大きくは変わらなかったが、オープン4座席の軽快なスタイリングはスポーツカーと呼ぶに相応しいものである。名実ともに日本車として初のスポーツカーと位置づけることができよう。

1952年登場したダットサンスポーツDC-3型。このカタログはスポーツカーを持つことの楽しさを表現しているように見える。太田祐一氏によるデザインで、後席を持つ4名乗だ。(日産)

ニッポンのオープン

1960年には、北米市場で初代フェアレディ(SPL212型)が発売されている。フェアレディの誕生以降、1963年の第1回日本グランプリ、翌1964年の首都高速道路開通、65年に名神高速道路が全通したあたりから、オープンスポーツカーが次第に日本車にも現れるようになった。1960年代の日本のスポーツカーといえば、ホンダS500/600/800からなるシリーズや、トヨタのスポーツ800が代表的だが、そられについては語られることが多いので、ここからは、”オープンカーは2座スポーツカーばかりではなかった”という方向で話を進めていくことにしたい。

量販スポーツカーとしてホンダS500の試作車が展示された1962年東京モーターショーは日本のスポーツカー元年といえるだろう。赤いボディの2座席車は鮮烈だった。(JAMA)

トヨタ・スポーツ800も日本の小型スポーツカーの象徴であった。デタッチャブルトップのオープンモデルは日本車にとっては新鮮な試みであり、実用性に優れていた。(トヨタ)

これに先立つ1958年には、オフィス家具のメーカーとして知られる岡村製作所(現オカムラ)が、商用車のミカサ・サービスカーに続いて、東京モーターショーでオープン2/4シーターのミカサ・ツーリングを発表している。シトロエン2CVの影響を強く受けた空冷水平対向2気筒エンジンの前輪駆動車だが、同社が独自開発したトルコン式A/Tを備えることが特徴の先進的なスポーツカーだった。しかしながら、この意欲的な試みは、1960年に同社が自動車生産から撤退したことで終止符を打ち、ツーリングの生産はごく少数だと思われる。個人的なことを記させていただければ、子供のころ、岡村製作所の本拠地がある神奈川県横浜市の街中でミカサ・ツーリングを目撃した記憶がある。塗色もなにもかも思い出せないが、ミカサだと父親に聞かされたことと、恰好がいいと思ったことだけは覚えている。

忘れてはならないのが、1959年に登場したスバル360コンバーチブルだ。前年の58年に登場したスバル360に詳細については詳しい説明の必要はないが、その軽量設計の特徴のひとつであったFRP製ルーフと透明樹脂製のリアウィンドーを取り外して、巻き取り式のソフトトップに置き換えたものだ。フルオープンではないが手軽に開放感を得ることができた。

1958年にはミカサのラインナップにオープン2/4シーターのツーリングが加わった。これはツーリングをベースにたクーペ。現存しており、東京都千代田区永田町にあるオカムラの『いすの博物館』に展示されている。(MCL )

1959年に登場したスバル360コンバーチブルだ。これは私の大好きな広報写真だが、スバルはこうした光景で、自家用車を持つもことの楽しさを提案したのだろうか。(SUBARU)

北米市場向け初代フェアレディ(SPL213)のリーフレット。ここにはスポーツカーの性能に加え、ファミリーカーの便利さを兼ね備えた、燃費のよい小型車と謳っている。(日産)

1961年東京モーターショーでデビューしたフェアレディ1500(SP310)では、後席は1名分だけ確保されていた。(日産/SH Collection)

大衆車のオープン、パブリカとコンパーノ

しばらくのオープンカー空白期を経て、1962年には空冷水平対向2気筒エンジン搭載の、軽量でシンプルな小型大衆車のトヨタ・パブリカが登場すると、翌63年10月にはコンバーチブルが加わった。そのエンジンはセダンより高出力のツインキャブ仕様、高圧縮型のU-B型36psとなり、4段コラムシフトのギア比も変更されたことで、車重が増加したのにもかかわらず、最高速度はセダンより10km/h増えて125km/hに達するという”高性能車”だった。2座席のスポーツカーは”一部の特殊なクルマ好き”のクルマであったから、後席を備えるオープンモデルが誕生したことはクルマ好きのファミーリーマンにとって朗報であったはずだ。実際、私はわが家の近所でパブリカ・セダンからコンバーチブルに乗り換え、後席に子供を乗せて家族で出掛けるという、まるでカタログのような光景に出くわした記憶がある。パブリカ・セダンの発売時の価格が38万9000円に対して、コンバーチブルは48万9000円と、この時期に10万円は大金には違いないが、普及が始まったばかりの自家用車を所有できる人にとっては考慮に価する存在であったのだろう。さらに66年12月には、ソフトトップを樹脂製の脱着式ハードトップに換えたデタッチャブルトップ・モデルが登場した。そうはいってもオープンカーは限られた人のものであった。

4座のオープンモデルとしては、1964年の東京ショーでデビューし、翌春に発売されたダイハツ・コンパーノ・スパイダーがある。その前年、1963年の東京ショーでデビューしたコンパーノは、ダイハツにとって初となる量販小型乗用車で、イタリアのカロッツェリア・ヴィニャーレがスタイリングを手掛けたシンプルでクリーンなデザインが特徴であり、そのオープン仕様もスタイリッシュに仕上がっていた。4 気筒OHVエンジンは、セダン系では800ccで登場したが、スパイダーでは1000ccに排気量を拡大し、ソレックス・ツインキャブレターを備えて65psを発揮し、最高速度は145km/hに達した。パブリカ・コンバーチブルに比べてスポーツカーよりの存在であり、さらに1967年4月の小変更では、前輪にディスクブレーキを採用して、レベルアップを図っている。価格は69万5000円(東京地区)とパブリカ・コンバーチブルだけでなく、ホンダS600やトヨタ・スポーツ800と比べても10万円ほど高価だった。

1963年10月にパブリカに加わった4座コンバーチブル。この時期には、こうした付加価値の高い乗用車が成功することはなかったが、実に意欲的な試みといえよう。(トヨタ博物館)

1965 年春に発売されたダイハツ・コンパーノ・スパイダー。 イタリアンデザインであり、イタリア風のスパイダーの名が日本では目新しかった。これも後席を備える。(ダイハツ)

プリンス自動車が1962年に発表した、スカイライン・スポーツにはオープン仕様も存在した。2名分の後席を備える。(プリンス/SH Collection)

オープンカー空白の時代

1966年になると、乗用車購買層の増加を見据えた小型大衆車の切り札として、日産がサニー1000を、トヨタがカローラ1100を、富士重工業がスバル1000を投入して、”マイカー元年”となった。だが、増え続ける自動車の保有台数が1000万台間近(67年に突破)になると、次第にメーカー各社は社会問題となった排ガス規制や、やがて高まる自動車の安全性向上に邁進することになり、世界第2の自動車生産国となった日本であったが、暫くオープンカーから遠ざかっていく。

1970年代の世界の自動車会社は、マスキー法による排ガス対策とそれに追い打ちを掛けたオイルショックによる燃費向上。さらに安全対策の充実化で鎬を削ることになった。世界中を見渡しても新規に発売されるのは実用車ばかりであり、激動する時代では付加価値車を求めなくなった。安全対策の強化はオープンモデルにとっては死活問題となり、1979年にVWゴルフに加わったカブリオは、転覆時の安全性確保のためロールオーバー・バーを備えて登場し、人々を驚かせるとともに、これが生き残りの手段であることを悟った。アメリカ人の愛するフルサイズ・コンバーチブルは燃費と安全性の強化によって絶滅危惧種への道を辿っていった。

話を日本車に戻すと、1980年代に入ってもメーカーはオープンモデルに冷淡であるように思えた。1981年にはトヨタ・ソアラが登場し、いすゞがピアッツァを、マツダもコスモの名を再登場させるなど、高級スペシャルティーカーの車種は増えたが、どれもクーペであり、2世代目フェアレディZにデタッチャブル式のTバールーフが加わったことが”オープン化”の少ない例であった。だが、オープンファンにとって朗報もあった。1984年6月にホンダ・シティに加わったカブリオレである。全長3.4mほどながら背高のズングリとしたボディ(トールボーイと謳った)は可愛くユーモラスでもあり、A/T仕様も用意されていたことから、使い勝手のいいオープンカーとして受け取られた。日本車にとってのオープンモデルが絶滅したわけではなく、スライディングルーフはオプションとして存在していたし、1986年に登場したフォード・フェスティバは大きな開口部を持つ、キャンバストップが特徴だった。

日本車にオープンモデルが咲き誇ったのは、好景気真っ直中の1980年代末期の89年からだ。いうまでもなく、最も顕著な存在が日本市場にオープン・ライトウェイトスポーツカーの魅力を広く知らしめたマツダのユーノス・ロードスターである。さらに1990年代に入ると、軽自動車にもスペシャリティカーが登場し、ホンダ・ビートとスズキのカプチーノがオープンで登場。凝ったことにカプチーノは収納式ハードトップであった。

1981年に高級パーソナルカーとしてトヨタが放ったソアラは大成功を収め、86年に登場した2世代目には、89年に限定ながらリトラクタブル式のオープントップのエアロキャビンが加わった。(トヨタ)

1988年春に5世代目に進化した日産シルビア(S13)には、コンバーチブルが設定され、同年7月から販売が開始された。(日産)

1986年にマツダはファミリアにカブリオレを導入した。VWゴルフに採用例がある転覆時の安全性を確保するロールオーバー・バーを採用した。(マツダ)

1988年にはホンダ・シティにカブリオレが加わった。ピニンファリーナがオープン化への作業を担当し、幌は耐候、断熱、防音性に優れたものだった。(ホンダ)

第4世代のトヨタ・セリカには1987年の小変更に合わせてコンバーチブルが加わった。北米市場に向けたモデルだが、日本でも販売された。(トヨタ)

日産マーチは初代(K10)にはキャンバストップ仕様を設定していたが、第2世代と3世代にカブリオレを用意した。これは1997年春登場の第2世代カブリオレ。3世代では格納式HTになる。(日産)

1992年3月にホンダはCR-Xの第3世代として、デタッチャブルトップ方式のCR-Xデルソルを発売した。(ホンダ)

好景気もまさに頂点に達した1990年には各社から軽スペシャリティカーが登場した。スズキは同年1月にFFRレイアウト、リトラクタブルHTのカプチーノを投入した。(スズキ)

ホンダは同年5月に横置き3気筒をミッドシップに搭載したビートを放った。ホンダにとって久しぶりのソフトトップ・オープンだった。(ホンダ)

ダイハツは、1991年11月に軽スペシャリティカーのリーザで、絶えて久しいスパイダーの名を冠したモデルを追加した。(ダイハツ)

現在の日本の自動車市場を見渡すと、オープンモデルは、マツダ・ロードスターを筆頭に、ダイハツ・コペンとホンダS660という2座席スポーツカーのみという状況だ(それに喜喜として乗っているシルバードライバーを見ると、同輩として嬉しくなる)。リアシートを持つオープンモデルの国内での設定は、この稿を記している時点ではないが、それは国内でのセダンの衰退と関係があるのだろう。これからはEVモデルも数を増すだろうが、その中にはオープンモデルが存在してもいいかもしれない。内燃機関の息吹を感じないEVとオープン、けっこう調和するのではないか。

日本の自動車市場では軽自動車頼みが続いているが、オープンスポーツカーのホンダS660とダイハツ・コペンも健闘している。コペンはトヨタブランドのGRスポーツとしても販売されている。個人的にはコペンでなく、ダイハツらしくスパイダーと名乗ってほしかったが。(トヨタ)