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自動車技術&文化史探訪

4WDの発展に潜む光と影の歴史アウディとジェンセン

2020年3月でアウディ・クワトロは生誕40周年を迎えた。1980年3月にジュネーブ・ショーでデビューしたクワトロが大成功を収めるまで、4輪駆動車といえば、ジープに代表されるタフなオフロードカー(CCV=クロスカントリービークル)を思い浮かべることが一般的であったが……。

TEXT / 伊東和彦

4WDの発展に潜む光と影の歴史

1980年3月にジュネーブ・ショーでクワトロが登場するまで、4輪駆動車といえばオフロードカー専用に思われていた。(AUDI)

クワトロ以前にも、乗用車ながら4輪駆動方式を備えたクルマは存在していたものの、どれも”知る人ぞ知る”希有(特異というべきか)なものであった。もはや歴史の中に埋もれかけている理由は、クワトロほどの規模で世界的な成功軌道に乗っていなかったからだ。

唯一の先行組での成功例には、1972年9月に国内で発売されたスバル・レオーネ4WDエステートバンがあるが(商用車であったがステーションワゴンとして使われる例が少なくなった)、当時はまだパートタイム式4WDであり、その技術レベルは高く評価されていたものの、スバルはまだ現在のような世界的な知名度を得てはいなかった。1975年には量産4WD乗用車としては初めての4ドアセダン4WDが登場し、86年からフルタイムを採用した。スバルが4輪駆動(AWD)技術をひっさげて世界的なブランドに成長したのは、ご存知のとおりだ。

クワトロ・ショック

『Volsprung durch Technik(技術による先進)』というブランド・スローガンを掲げて、1980年3月3日にアウディが放ったクワトロの顕著な技術的特徴として報じられ、人々を驚愕させたのはフルタイム4WDシステムを備えていることだった。現在では常識化している機構だが、そのころにはフルタイム4WDという言葉さえ耳慣れぬものだった。さらに、『その良好なトラクションを最大限に生かすため、マニュアル操作によってロック可能な、センターとリアの2 個のディファレンシャル・ロックを備え、これによって特に滑りやすい路面上において高い運動性能を発揮する』と謳った。

当時のアウディでは最もパワフルな直列5気筒ターボチャージャー付きエンジンを搭載していたことから、ユーザーからは高級な全天候型グランドツアラーとして捉えられた。

クワトロに備わる高い走行性能が発揮されたのは、1981年からWRC(世界ラリー選手権)への挑戦を開始して連戦連勝を果たしたことだ。86年に撤退するまで、WRCイベントで23度の勝利と、4回のワールドチャンピオンタイトル獲得という偉業を達成している。WRCに投入されたクワトロのあまりの強さに震撼したライバルたちは、雪崩を打ったようにフルタイム4WDへと舵を切ることになった。

スポーツカーとしての4輪駆動という新境地を切り開いたアウディは、それまでの良質で堅実な乗用車を手掛ける地味なメーカーから、活発なイメージを持つメーカーへと脱皮に成功し、クワトロはサルーンやステーションワゴン(アヴァント)とバリエーションを展開していった。同社の発表資料によれば、2019年に製造された全アウディモデルの約45%がクワトロシステムを搭載し、1980年以来の累計は1050万台を超えている。ライバル各社もアウディに倣ってフルタイム4WDのラインナップを展開し、現在に至っていることは読者もご承知だろう。

前述したように会社の方向性を激変させる切り札となったクワトロ計画を牽引したのは、ポルシェからアウディに転じたフェルディナント・ポルシェ博士の孫、フェルディナント・ピエヒであった。彼の技術者としての名声を高めたのは、ポルシェ在籍時代に開発した917によって1970年にル・マンでポルシェにとって初めての優勝を果たしたことだ。72年にポルシェ家の決定により親族がポルシェ社から去ることが決まると、ピエヒはダイムラー社で5 気筒ディーゼル・エンジンを開発したのち、アウディに転じた。

クワトロ計画の初期の段階で、駆動系のテストベッドとして大きな役割を果たしたのが、軍用CCVのVWイルティスであった。そのイルティスの祖はDKWが開発し、後にアウトウニオンのブランドで販売されていた、F91/4ムンガである。ムンガ(MUNGA)とは、Mehrzweck UNiversal Geländewagenmit Allradantrieb(全輪駆動多目的車両)に因み、同車の性格をそのまま名称としている。1954年にDKW製2サイクル3気筒の896cc、38psで登場し、58年からは980ccの44psとなって、生産を終える68年末までに5万5000台が生産された。全長3450mmほどで、車重は1110kgであり、万能車として軍および民間で活躍した。このムンガこそクワトロの遠き祖といえよう。

ムンガの軍用後継モデルとして造られたのが、VWイルティス(タイプ183)で、こちらはVW/アウディ系の4気筒エンジンを搭載し、通常はRWDだが、レバー操作によって前輪も駆動することができる、パートタイム式であった。

イルティス開発段階で、4輪駆動ゆえの高い走破能力を再認識したピエヒ率いる技術陣は、オンロードモデルに可能性を検討すべく、前輪駆動車のアウディ80をベースとした4輪駆動モデルの試行に着手している。1977年には、アウディ80にイルティスのトランスファーと後輪駆動システムを組み込んだ試作車の”A1″を完成させると、翌’78年にはターボ付き直列5気筒エンジンを搭載している。1976年にAUDI100用のユニットとして登場したこの5気筒エンジン自体もまたピエヒの設計であった。

4WD化するにはフルタイムとすることが望ましいとの考えから、A1には中空プロペラシャフト(内部をもう1本のプロペラシャフトが貫通する)を用いた、センターディファレンシャルが組み込まれた。このシステムの採用により、4輪駆動系全体の簡素化と軽量化が図られた。厳寒のオーストリア・アルプスでのVW幹部らの評価テストを経て、クワトロの生産化が決定された。それ以降の現在に至る足跡は読者諸氏もご承知のとおりである。

クワトロはWRCでの活躍によって市場にアピールした。これは筆者の想像だが、降雪でもクルマでの移動が求められる北欧州の人たちには、ウィンターラリーでの成功がクワトロ選びの参考になったのではあるまいか。(AUDI)
WRCでの戦闘力を高めるため、大胆にWBをカットしてスポーツクワトロが製作された。(AUDI)
クワトロ生誕記念の企画展に展示された祖先。DKWムンガとVWイルティス(。AUDI)
めったに登場する機会がないのでムンガの姿をご覧にいれておこう。これはアウトウニオンを名乗ってからの、総合カタログに掲載された、ムンガの使い勝手のよさを示す説明。(AUDI)
ジェンセンの挑戦と敗退

アウディ・クワトロの出現の14年前、1966年にイギリスで高級少量生産のパーソナルカーを手掛けるジェンセン社がフルタイム4WDのFFを発売していた。それは、既存モデルのインターセプターに加わった派生型であり、アンチロックブレーキ(ABS)を最初に生産車に装着した例でもあった。当時、最も権威あるクルマ関係の賞典として知られていたカー・オブ・ザ・イヤーにおいて、1967年にジェンセンFFが3位を受賞している。144点を得て大賞を得たフィアット124は順当だとしても、2位BMW1600の69点に対してジェンセンが61点であったことから、ジェンセンの意欲的な挑戦が、いかに玄人たちから高く評価されたのかが伺い知れる。たとえば英国の『Motor』誌は、特にABSについて、制動時にステアリング操作を可能にしていることが安全性の向上に繋がると高く評価した。

ジェンセン社はアランとリチャードのジェンセン兄弟が1930年代半ばに興したボディデザインと架装会社が発端であり、エンジンなど主要コンポーネンツはオースチンやナッシュなど他社から供給を受け、独自のスタイリッシュなボディを架装することで顧客を得ていた。戦後には独自の高級グランツーリスモの生産を開始したほか、ボルボからP1800の組み立てを任されるスペシャリストであった。

1966年秋のロンドン・モーターショーで、ジェンセンはまったく新しい豪華4座クーペの新型、インターセプターを発表した。1962年登場のC-V8 は、クライスラー製5.9リッターV8(後に6.2リッター)を搭載したファストツアラーで、『Motor』誌から走行性能についての高い評価を得ていた。新しいインターセプターは、6.3リッター325bhpエンジンを搭載して、ヴィニヤーレのデザインになる斬新なファストバックボディを採用するなど、さらに豪華ファストツアラーの性格を強めていた。その試みのひとつとして加わったのが、フルタイム4WDを採用したFFであった。

トラクターと前輪駆動

FFとはこのシステムを開発したファーガソン・リサーチ社の開発品を示す”ファーガソン・フォーミュラ”の意であった。ここで少し、”FF”について記しておこう。

ファーガソン・リサーチ社を興したのは、英国航空界のパイオニアであり、”農業用トラクターの父”と評されるハリー・ファーガソンである。彼は1950年にマッセイ・ファーガソン・トラクターとは別にファーガソン・リサーチ社を設立すると、大戦前からレースカー用として4輪駆動車の研究に着手していたレーシングドライバーのフレディー・ディクソンとトニー・ロルトのアイディアに資金を提供するかたちで、研究開発に加わった。

同社は4輪駆動とABS の効果を実証するため、クロード・ヒルの設計になる4WD F1マシン、プロジェクト99 の開発に着手した。ヒルは戦後のアストンマーティンDB1の開発を担った人物だが、もともとハリー・ファーガソンはアストンマーティンのデイヴィッド・ブラウンと共同でトラクター生産をおこなっていた経緯から、ヒルも参加したのであろう。

ハリー・ファーガソンはF1マシンの完成を見ることなく1960年に死去したが、プロジェクト99はロブ・ウォーカー・チームに委ねられ、翌’61年にオールトンパークで開催されたノンタイトルF1レースにスターリング・モスのドライブで参戦。降りしきる雨の中で優勝を果たして、4WD優位の考えが正しいことを証明した。同車にはダンロップ製”Maxaret(マクサレット)”ABSが搭載されていたものの、実戦では使用されていなかったといわれる。

GPカーだけでなく、ファーガソン・リサーチはABSを備えた4輪駆動ロードカーの研究をおこない、1960年代初頭にはワゴンボディを持つ試作車のR5を完成させている。ファーガソンは、路上でのクルマの安全性を高めるためには4輪駆動が有効との信念を持ち、安全なクルマを開発して自動車産業への参入を果たそうと考えていたようだ。

ファーガソンの考えを実現したのが、1966年に登場したジェンセンFFといえる。その設計陣のひとりには、後にティレルF1の設計者として知られるデレック・ガードナーがいたが、後輪駆動のインターセプターをベースに4輪駆動に変更する作業は困難を極めたという。

クライスラー製”383″ビッグブロックV8には、トルクライト3 速A/Tが組み合わされ、駆動力配分は前軸が37%、後軸63%で、前後軸の重量バランスは51:49であった。

4WDサルーンの先駆者となったジェンセンFFだったが、1967年の生産開始から71年の石油危機による生産打ち切りになるまでに、わずか320台を生産しただけ終わった。後輪駆動のインターセプターが、76年のジェンセン社倒産までの間に5472台のクーペと105台のドロップヘッドクーペを生産していることと比較して、あまりに短命で少数での終焉であった。その理由を推測すると、ジェンセンほどの高価格車を買い求める顧客層であっても3割ほど高価で、その効用に浴することがないのなら、小切手にサインをする気にはならなかったのだろう。ジェンセンの顧客なら1台だけの所有ではないはずで、もしほかに”万能豪華版四駆”が必要なら、1970年に登場したレンジローバーを買い足せば済んだのである。

こうしてジェンセンは、安全のために技術的理想を追い求めつつ、時期尚早も重なって失敗した。これに対して、アウディは用意周到に計画をこなし、それが最も効果的にアピールできるラリーで真価をアピールして、その成功が会社のイメージ刷新にも成功したといえる。

ファーガソンR5プロトタイプ。1950年代半ばにハリー・ファーガソンはフルタイム4WD、ABS装着のクルマで、自動車事業への参入を目論んでいた。(Ferguson)
これもファーガソン4WDの試作車だが、搭載エンジンなど詳細は不明1。962 年にミケロッティがボディを手掛けて完成した。(Ferguson)
フルタイム4WDとABSの組み合わせが安全な走行に繫がると考えていたハリー・ファーガソンの思想は、1966年になってからジェンセンFFによって具現化された。クライスラー製6.3リッターV8を搭載した豪華な2ドアサルーンで、ボディはヴィニャーレの作。(Jensen)
後輪駆動のインターセプターをベースに前輪とスカットル間でW Bを5インチ(127mm)延長し、4輪駆動のトランスファーのスペースを捻出した。サイドの空気孔が2個なのがFFの証。フロントにはJFF、テールにJensen FFのロゴが入る。(Jensen)
こちらは後輪駆動のインターセプター。FFと比べてみるとボンネットが短いことがわかる。ジェンセンは北米市場でも販売されていたが、Lhdが機構的に不可能なFFはLhd圏で販売できなかった。これも販売が伸びなかった要因だろう。(Jensen)
ファーガソンとF1マシン

ジェンセンFFは失敗に終わったが、ファーガソン・リサーチは自動車メーカーから舞い込む4輪駆動開発に関するコンサルタント業に従事している。P99に次ぐGPカーへの応用例には、1964年にBMWがファーガソンから装置を得て、マシンの試作をおこなったことがある。

GPカーへの応用がピークとなったのは、1969年に突然のように巻き起こったF1マシンの4WD旋風であった。1968年の中盤から大型化の一途を辿っていた空力付加物(ハイウィング)だったが、スペインGPでウィング自体の破壊による重大事故が発生したことが発端となって、FIAがウィングについての規定を強化すると、マトラ、ロータス、マクラーレンがファーガソンシステムを使用して4WDマシンを試行した。

1969年のイギリスGPではマトラが9位、ロータスが10位に入ったものの、4WD化による車重の増加が避けられなかったことから主流にはならなかった。また、1971年に、ロータスが再度、ガスタービンエンジン搭載マシンでファーガソンシステムを用いたが、好結果には至らずに終わった。なお、マトラの4WD GPマシンであるMS84の設計者は、ジェンセンでFF 開発計画を担当したデレック・ガードナーであった。

F1マシンとして唯一の勝利をスターリング・モスのドライブで上げたファーガソンP99。エンジンはクライマックス製1.5リッター。これもクワトロ生誕記念企画展での様子。(AUDI)
単座レーシングマシンの4WD化は、コーリン・チャップマンが特に熱心だった。これは1969年にインディマシン、ロータス64だが、本戦には出場できなかった。(INDY500 Archives)
スバル4WDの原点、1972年9月に国内で発売されたスバル・レオーネ4WDエステートバン。ただし、これ以前の1971年にff-11300Gバンをベースにした4WDモデルが、東北電力からの注文で5台納車されている。(SUBARU)
1985年に登場したスバル・アルシオーネは商業的には大きな成功は果たさなかったが、新開発の2.7リッター・フラット6を備え、前後駆動トルク配分の自動制御機構『ACT-4』など意欲的な機構を備えた4WDファストツアラーだった。(SUBARU)