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自動車技術&文化史探訪

激動の1980年代とクルマメルセデス、EとC

"実用に足るクラシックモデル"としてファンから強く指示されているメルセデス"124"と"201"は、長いダイムラーの歩みのなかに存在した大きな分岐点のひとつにあったモデルだと考えられる。

TEXT / 伊東和彦 PHOTO / Daimler Archives

激動の1980年代とクルマ

メルセデスW124は1984年に、W201はその2年前の82年に登場している。1979年にはSクラス(W126)がデビューしており、1979年から84年にかけてメルセデス各レンジは一新された。

1980年代は、世界中の自動車産業にとって、不況から好景気の絶頂へと駆け上がった激動の10年間であったといえるだろう。この間にクルマは大きく様変わりし、数多くの記憶に残る意欲作や秀作が生まれていった。この10年間のあいだで最も大きな変貌を遂げたのは日本車だろうが、激動という言葉は、世界最古の自動車会社といえるダイムラーベンツにとっても例外ではなかった(ダイムラー社とベンツ社が合併したのは1926年のことだが、それぞれが独立企業だった時期を考慮すれば、最古と言うことができよう)。

1970年代後半に学業を終えて社会に出た私には、1980年代は混沌とした中で始まった印象が強く残る。社会面では、前年12月のソ連によるアフガニスタン侵攻に抗議して、西側諸国が1980年のモスクワ・オリンピックへの参加をボイコットしたことが大きな話題となった。

自動車界では、1979年2月のイラン革命に端を発した第二次石油危機による石油供給不安の真っ直中での幕開けだった。1973年の第一次石油危機の時もそうであったように、世界規模で燃費性能に優れたクルマが求められるようになり、メーカー各社もクルマの小型化を急ぐ傾向とあった。それまで燃費などあまり気にしていなかったように見えたアメリカ市場でも小型車志向が強まり、顧客たちは我慢を強いられるような耐乏型ではなく、小さくても快適な小型車を選ぶようになった。だが、いざ購入しようとしても、北米製のラインナップにはそうしたクルマの品揃えは少なかったことから、すでに北米市場で見慣れた存在となっていた日本車に人気が集まった。

日本の国内需要は冷え込んだままだったが、好調な北米市場に引っ張られ、1980年における日本の乗用車生産は約704万台に達して、アメリカを抜いて初めて世界一の座に就いた。果たして、かねてからの日本車の活況ぶりに業を煮やしたアメリカからの圧力によって、日本のメーカーは1981年から輸出の自主規制をせざるをえなくなった。

世界的に見れば、自動車界は長引く世界的な不況に喘いでいた。アメリカのフォードとクライスラーが、業績不振から1982年に初の無配を発表したことが、その苦しみを物語っていた。

この時期のメルセデスでスタイリング部門を率いたブルーノ・サッコとW201のスケールモデル。
W201_190シリーズの誕生

こうした混迷した状況のなかで、ダイムラーベンツは1982年12月、かねてから噂されていたコンパクトクラスの”W201″、190シリーズ発表した。W201を機に同社は大きく舵をきることになる。舵の方向には大別して三つの要素が思い当たる。

第一に、これまでになかった小型モデルへの初参入を図ったことだ。現在の豊富なラインナップからは考えないことだが、これまで同社の乗用車ラインナップはSクラスとEクラスのセダン系、スポーツモデルのSLクラスという3車種系列だけであった。W201は、若い年層の顧客にアピールすることで市場を拡大する意図のもとで、新規投入された(Cクラスと呼ばれるのは後継モデルのW202シリーズからになる)。

第二に燃費に配慮したことだ。W201導入の目的のひとつにアメリカで導入されたCAFE(企業平均燃費規制)のクリアがあった。旧来からの大型大排気量モデルだけではこの規制を達成することは難しく、小型の高燃費車を投入することで、燃費の平均値を良好にする必要があった。ダイムラーベンツは、コンパクトモデルの開発に着手した時期を明らかにしていないが、第一次石油危機が世界を襲い、省燃費車が求められた1973〜74年頃と推察するのが妥当だろう。

第三の要素は機構的に新しい試みだ。すなわち上記の第一と第二の要素を成し遂げるための必須要件であった。まず、後輪の独立懸架をメルセデスとして初めてマルチリンク式としたことが、特筆に価する大変革であった。メルセデスは、それ以前からロータリーエンジン搭載のC-111でマルチリンク式リアサスペンションを使用していたが、C-111は第一次石油危機によって市販されずに終止符が打たれてしまった。だが、そのサスペンション研究の成果はW201で日の目を見た。マルチリンク式では、後輪各輪それぞれを5本の独立したリンクによって支持することで、さまざまな走行状況下で最適なホイールコントロールを実現させることを目的としていた。結果としてステアリングの精度が向上し、扱いやすいハンドリング特性を備えることになった。さらに、新しいリアアクスル・ユニットは従来のものよりも軽量かつ小型化されたことが大きい。マルチリンクの採用によって、戦前にスウィングアクスルの採用を英断したメルセデスの後輪独立懸架の歩みは、新しい段階へ進むことになったわけだ。

燃料消費量削減のために、ボディの空力特性を最適化するとともに、高張力鋼板などの新しい素材を使用して車両重量の軽減を図ったことで、最も軽量なモデルでは1080kgに納まった。また、軽量化のためにパッシブセーフティを犠牲にすることはなかった。当時の資料では、上級モデルと同等の衝突安全を実現したと謳い、安全性のベンチマークとなっていたW126系Sクラス用を踏襲したフロントエンドのフォークメンバーの採用が要因だと述べている。さらに安全対策としてABS、SRSエアバッグを備えていた。

当初のバリエーションは4気筒SOHCの2リッター・エンジンのみで、キャブレター仕様の190と、燃料噴射仕様の190Eの二本立てであった。

W201はまず、シンデルフィンゲン工場で生産が始まり、翌83年11月にはブレーメン工場の組立てラインが稼働した。そして、矢継ぎ早にエンジン・バリエーションを追加していった。1983年に4気筒ディーゼルの190D、84年にコスワース製DOHCヘッドを持つ190E 2.3-16(後に2.5-16に発展)が、85年には5気筒ディーゼルの190D 2.5を加え、同年9月には6気筒の190E 2.6を、87年9月のフランクフルトでは190D 2.5ターボを発表している。中でも注目すべきは、これまでのメルセデスでは先例のないレース出場を目的としたモデル(2.3や2.5-16)を加えたことだ。

さらに1988年9月パリ・サロンでは、主にボディのスタイリングとインテリアの手直しがおこなわれ、サイドスカートのパネルが一体化されたプロテクション・サイドストリップを採用した。190シリーズは1993年8月の生産終了までに180万台超が造られるという顕著な成功を収めた。

メルセデスにとって初めての量産車への採用となったマルチリンク式後輪懸架。後輪各輪それぞれを5本の独立したリンクによって支持する。
W201のボディバリエーションは4ドア・セダンだけだった。前列の右がコスワース製DOHCヘッドを持つ190E 2.3-16、その左が標準的な190E、後列右が190D、その左がキャブレター仕様の190。
W201シリーズではDTMなどセダンカーレースを意図したツインカム・エンジン仕様車を設定したことが特徴だ。これは”16バルブ”シリーズの究極モデル、2.5-16エヴォリューションⅡ。
Eクラスの誕生

1984年にW123の後継型としてW124が登場し、現在につながるミディアム・クラスやEクラスと呼ばれるモデル呼称が初めて使われた。W123までは、Sクラスより小型であることから、”コンパクト”と呼ばれていたが、それはW201に譲り、W124は”ミディアム・クラス”となった。ちなみに、それまでメルセデスでは”E”は、燃料噴射を示す”EINSPIRIZUNG”を示していた。

W123はボクシーなスタイリングに見られるように、それまで長く培ってきたメルセデス・セダンの延長線上に位置していた。それゆえにスタイリングだけでなく、機構面についてもクラシカル・メルセデスの最終完成形といえるのではないかと、私は考えている(それゆえに”W123でなければ”という根強いファンがおられる。この私もそうだが)。

新しいW124では、まず、W123とは趣の異なるメッキが少なくなったスタイリングが、新しい時代に向けて舵を切ったことを雄弁に物語っている。W201に続いて、ブルーノ・サッコ以下、ジョセフ・ガリッツェンドルファー、ピーター・ファイファーがデザインを担当したそれは、もちろん”計画された陳腐化”のための変更ではなく、W123の開発時にはそれほどの重要度を持たなかった空力改善が主命題であった。

スタイリングで最も特徴的なリアエンドは後端に向かって細くなり、サイドの上端は強く丸みを帯びているが、これは空力的には有益な効果があり、風洞実験の賜であった。空力性能の向上によって先代モデルよりも明らかに燃費が改善され、W123シリーズのCD=0.44 から、W124では0.29〜0.32に低下し、この時期としては画期的な低い空気抵抗係数を示した。有限要素法を駆使したW124はアナグロからデジタルへ変換する転機だったともいえようか。

外観上で見る者を驚かせたのが、シングルアーム偏心スイープ式のフロントウィンドウワイパーだった。このワイパーは当時、乗用車としては世界中で最大の拭き取り面積を誇った。回転運動にリフト運動を重ね合わせたことにより、従来のシングルアームワイパーよりもはるかに効率的であると謳った。また、電気加熱式ウィンドスクリーンウォッシャーノズルが全モデルに標準装備された。

シャシーでは、W124にも当然ながらW201から採用が始まったマルチリンク式リアサスペンションが用いられた。W124の変遷については40ページの年表に詳しく記されているはずなので、そちらに任せるが、W124では、それまでには例のない多岐にわたるバリエーション追加を図っている。1990年に、500SL由来の5リッター、240kW(326ps)のV型8気筒32バルブ型エンジンを搭載したスポーツセダンの500Eを加えたことは新しい試みだった。500Eの生産は、当時、ポルシェとの緊密な連携のもとに行われ、ボディシェルの製作と最終組み立てをシュトゥットガルト・ツッフェンハウゼンのポルシェが担い、塗装はシンデルフィンゲン工場が担当した。500Eの生産は経営的に苦しい立場にあったポルシェを救済する意味も込められていたが、それゆえか、現在ではコレクターズ・アイテムとなっている。

このほかの機構面では、“Mercedes-Benz Driving Dynamics Concept”を掲げて、電子制御式の4輪駆動の4MATICを投入したことが新しい。

W124は、W201と同様に高張力鋼板をはじめとする軽量化素材を採用することで軽量化を押し進める一方、車両の安全性をさらに向上させた。当時、盛んに謳っていたのが、側面衝突と転覆時(ロールオーバー)の耐性であった。また、前面には歩行者と自転車を保護するために、衝突時に変形して衝撃を吸収すると謳われていたことに、安全対策の充実とはそうしたものかと、驚かされた記憶がある(現在では当たり前のことだが)。

安全性といえば、1991年に20年にわたって途絶えていた4座カブリオレの復活に際しての対策がある。先に投入されていた2ドアクーペをベースにルーフを取り去ったモデルだがその分の剛性低下を補うべく、総重量にして130kg以上の補強パネルを付加したといわれ、転覆時に大きな負担を負うAピラーでは、その内部にパネルを追加して強化を図っている。1970年代にはフルオープンボディは転覆時に危険だというアメリカ発のセイフティクライシスによって絶滅の一途を辿っていったことはご存知だと思うが、北米市場ではオープンモデルを望む声は高かった。それに応えて、1979年にVWゴルフに加わったカブリオは、転覆時の安全性確保のため、フルオープンとはせずにロールオーバー・バーを備えて登場した。メルセデスはカブリオレ・ボディの復活に当たって、緊急時に0.3秒以内にほぼ直角に飛び出す後席ヘッドレスト型ロールバーを備えて安全を図った。また、ソフトトップはドイツ車の伝統である耐候性に優れた凝ったもので、実に27個リンクパーツと34個のジョイントで構成されたことで、単体重量は43kgに達した。

好景気にも後押しされて、W124は11年以上の生産期間で累計273万7860台が生産されるという成功を収めた。そのうちセダンが221万3167台、ステーションワゴンが34万503台を占め、クーペとカブリオレがそれぞれ14万1498台と3万3952台であった。このほかに少数ではあるが、主にタクシー用のLwbとスペシャルコーチワーク用のシャシーが造られている。

冒頭にも記したように、1980年代は不況の中から幕を開け、1989年は好景気の頂点となる経済が急上昇を果たすという激動の時代だった。1982年のW201の投入から始まり、メルセデスは1984年に投入したW124で、景気の高まりとともに積極的なモデルバリエーションを展開するなど、かつてないほどの攻勢をかけていった。それまでにもメルセデスは海外でも信頼されよく売れていたが、W201とW124によってさらに販路を拡大していった。すなわち、それまでメルセデスには縁遠かった人々にも、スモール・メルセデスによって浸透し、W124は豊富な品揃えによって顧客を獲得した。機構的にも新機軸を採用するなど、これら2車種によってメルセデスは新しいステップに踏み出したといえるだろう。

W124とW201はSクラスをベンチマークとして安全性を高めたという。これは両車による衝突実験の様子。ともに右ハンドル仕様だ。
1982年のW201投入によって。メルセデスのセダン系は3モデルのラインナップとなった。中央のW124は1984年、SクラスのW126は1979年の登場。
W124 の空力性能は、W123シリーズのCD=0.44から、0.29〜0.32に低下した。
W124のボディバリエーション。これにカブリオレが追加された。
1991年に20年にわたって途絶えていた4座カブリオレがW124で復活した。緊急時に0.3秒以内に飛び出す後席ヘッドレスト型ロールバーを備えることで安全性を高めた。
めずらしいロングホイールベース仕様の3列シート車。ハイヤーや送迎車として使われた。
これはW124の特装車用シャシーに架装された救急車。東京都内でも見たことがある。
W124になって世に出た新しい機構のひとつが1985年に登場した四輪駆動の4MATICだ。
ポルシェとの協業にとって1990年に誕生したスーパーメルセデス・セダン、500E。500SL由来の5リッター、240kW(326ps)の32バルブV8を搭載。