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自動車技術&文化史探訪

アメリカン・ポルシェ?PORSCHE TYPE 542 "STUDEBAKER"

ポルシェのビジネスが好調だ。その屋台骨を担っているのは、SUVシリーズやパナメーラなどのヒット作である。今回はそれらのルーツといえそうな、人知れず開発された4ドアモデルを探訪してた。

TEXT / 伊東和彦 PHOTO / Porsche Archives

アメリカン・ポルシェ?

ポルシェタイプ542プロトタイプ(左)と、1953年スチュードベーカー・スターライトクーペ。スターライトはV型8気筒エンジンを搭載する。タイプ542のほうが保守的なデザインに見える。巨大なバンパーに注意されたい。いわば後年の5mphバンパーの祖か。(Porsche Archives)
フェリーの時代が始まる

フェルディナント・ポルシェ博士が1951年に死去すると、息子のフェリーがシュトゥットガルトのポルシェ設計事務所を率いることになった。それ以前、フェルディナントがフランスに戦争協力者として軟禁されていた時期から、会社を動かしてきたのはフェリーだったが、偉大な技術者であった父を失ってからは名実ともに彼がリーダーとなった。同時にポルシェ356の生産も本格的に始まり、設計開発だけでなく、メーカーとしての活動が活発化していった。ポルシェは以前とは段違いに忙しくなった。

ポルシェ設計事務所の収益源は、フォルクスワーゲンはもちろん(新規開発だけでなくビートルの設計料も入っていた)、クライアントからの設計委託を受け、クルマだけにかかわらず各種の設計開発を行うことであった。父の時代からの経験深く有能なスタッフは、これをこなす大きな人的財産であった。

持ち込まれる案件の中には日本からの仕事もあった。それは、1955(昭和30)年5月に発表された通産省の”国民車構想”に触発され、新規乗用車市場に新規参入を図ろうとした、ある大手建機メーカーからの小型大衆車設計の依頼だった。これは実現せずに終わり、スペックなどの詳細はいっさい不明だが、もし結実していたなら、1960年代の日本の道路をポルシェ設計の小型車が疾走していたかもしれない。

1952年5月、訪米したポルシェの“代表団”持ち込んだ4シーターのコンセプトカー、タイプ530。(Porsche Archives)
1958年ニューヨークでのフェリー・ポルシェとポルシェ356クーペ、そしてVWビートル。この時はもうスチュードベーカーとの協業は終わっていた。(Porsche Archives)
フェリーのアメリカンコネクション

1951年12月、フェリーは、自身にとって終戦後初となるアメリカ旅行に出発した。彼は戦前にも訪米しているが、この時はフェルディナント博士も健在であり、ポルシェ社も自らクルマを生産してはいなかったから、彼を取り巻く環境も戦前とは大きく変わっていた。

フェリーはニューヨークに着くと、同地を本拠に手広く欧州車の輸入販売を手掛けるマックス・ホフマンを訪ねている。商才に長け、機をるに敏なホフマンは、北米市場で第二次大

戦後に高まったスポーツカー販売で成功を収めていた。ホフマンはアメリカ・ポルシェ356を高く評価し、輸入を手掛けると同時に、北米市場で成功するためのモデルレンジについてのアドバイスを送っている。356スピードスターの企画提案や、550スパイダーのアマチュアドライバーへの販売促進のほか、そのブランドイメージ高揚などに大きく貢献している重要人物だった。

話を戻すと、彼はフェリーが率いるポルシェ設計事務所の今後のビジネスについてもディスカッションを行い、ホフマンがアメリカの企業とポルシェ設計事務所を結ぶ役割を担うことになった。このあたりの事情は、ヒストリアンのカール・ルドヴィクセンが詳しいので、彼の調査資料を参考にこれからの話を進めていくことにしたい。

ホフマンは、中堅自動車メーカーのスチュードベーカー社(インディアナ州サウスベンド)で輸出を担当するリチャード・A.・ハッチンソン副社長にフェリーを紹介した。

ホフマンはハッチンソンに対して、「ビッグスリーより規模のはるかに小さいスチュードベーカーが彼らと同じことをやっていてはだめ」で、将来、北米が”買い手市場”になった時を見据えて、”商売になる”個性を持ったクルマを造ることを勧めた。

その際、ホフマンはアメリカ版フォルクスワーゲンのようなモデルを造る必要があると進言したという。言い換えれば、信頼性が高く、高い品質を備え、ライフスパンが長い製品といったところだろうか。ホフマンはビートルがVW自身の手によって北米に本格輸入される以前からその可能性に注目し、自らの手で輸入販売を開始したという経緯があり、アチソンもまたビートルを熟知していた。ホフマンの意見を聞いたスチュードベーカー社は、手っ取り早く、ポルシェ車やVWビートルの輸入販売を手掛けようとも考えた節もある。実は、同社は業績が好調とは言えず、起死回生になるビジネスを必要としていたのだ。

ポルシェとスチュードベーカーの共同計画

1952年5月、ホフマンのアレンジによって、ポルシェの”代表団”がスチュードベーカーを訪問した。シュトゥットガルト側のメンバーは、フェリー・ポルシェのほか、ベテラン・チーフデザイナーのカール・ラーベ、シャシーエンジニアのレオポルド・シュミット、ボディ設計者のアーウィン・コメンダなど、会社中枢メンバーから構成されていた。シュミットとコメンダは同社にとって多額の特許料収入源となったポルシェシンクロの生みの親であった。

代表団は、2ドア・フル4シーターのコンセプトカーであるタイプ530をシュトゥットガルトから携えて行った。それは初対面のスチュードベーカーに対する、いわば名刺代わりとでもいえようか。タイプ530は356のホイールベースを延長し、ボディも拡大したかのようなスタイリングを持ち、Bピラー以降をノッチバックとして、後席の空間(ヘッドルーム)を拡大していた。そのほかにホフマンが生産型356クーペを持ち込んだ。

530プロトタイプはまだ未成熟であり、スチュードベーカーの意向を確かめる前に製作されたものであったから、米国側の評価は芳しいものではなかったが、会議自体はうまく運んだ。ポルシェの技術陣は、スチュードベーカーのエンジニアリング担当副社長のスタンウッド・スパロウ、およびチーフエンジニアのハロルド・チャーチルと意見交換し、初期契約を締結するに至った。 契約の趣旨は、”アメリカ版VWというべき小型車をスチュードベーカーのために開発する”という、いわば白紙委任状であった。ポルシェは、まず手慣れたリアエンジン小型車を提案したが、スチュードベーカーが望んだのはもっと大きなクルマだった。だが、最大手のクライアントであったVWの契約では、VWと直接競合する1.6リッター以下の乗用車を設計できないことになっていたから、むしろ好都合であった。

ポルシェはスチュードベーカーのために、既存の1952年チャンピオンに比べて、効率的で軽量な車を提案した。6気筒エンジンに3速ギアボックスを備え、85mph(約137km/h)の最高速度というアウトラインで、製品にはポルシェの名を冠する取り決めが成された。ポルシェは、当時では希有なV型6気筒ユニット(ランチアがアウレリアに採用したのが、生産型では唯一)を想定したが、アウレリアのように60度ではなく120度のVバンクとした。さらに信頼性と冷却の問題を解決するため、当初、空冷・水冷混合冷却システムを計画したとも言われている。結果的に複雑でコストアップを伴う混合冷却システムは採用には至らず、一般的な水冷型と空冷型を同時に開発することになった。

ボア・ストローク90×80mmから3054cc(186.3cu-in)の排気量を得た。ちなみに1953年型スチュードベーカー・チャンピオンは、旧態依然たる直列6気筒Lヘッドのレイアウトを持つ2779ccと3041ccの2本立てだった。

ポルシェが訪米した時期のスチュードベーカー。1951年チャンピオン・コンバーチブル。(MCL/Studebaker)
ポルシェ設計の4ドア・ノッチバック・セダン

1953年の秋には、最初のプロトタイプであるタイプ542が完成した。2.8mのホイールベースを持つ4ドアセダンで、エンジン以外のコンポーネンツの多くをスチュードベーカーの既存モデルから流用していた。さらに、機構面についても工場の生産ラインに合わせた細かい注文が出され、ポルシェはこれらの要件を満たすために妥協を強いられ、結果として、アメリカ車の標準に近づいていくことになった。だが、ポルシェが提案したモノコック構造に、リアエンジンゆえの後輪独立懸架は採用された。

スチュードベーカーでスタイリングコンサルタントの任にあったレイモンド・ローウィがシュトゥットガルトに出向き、タイプ542のスタイリングをチェックし、ポルシェのアーウィン・コメンダがローウィとポルシェのアイディアを融合させ、生産型ポルシェのボディ製作を担っていたロイター社がボディを試作した。

1954年3月には公道での試験走行が始まり、終型のプロトタイプが1954年8月に南欧で徹底的なシェイクダウンが行われ、同年の末に、サウスベンドの本社で引き渡し式が執り行われた。それは見事な出来映えで、発注者に高い評価を得た。完成度の高さを示す言葉として、スチュードベーカー・パッカード社のチーフエンジニアの任にあったハロルド・チャーチルは、空冷型は少し騒々しかったが、水冷型と遜色はなかったとの感想を漏らしたと、前述のルドヴィクセンが明らかにしている。また、衝突修理の際、簡単に取り外して交換できるフロントエンドの設計を高く評価した。

だが、ポルシェが契約に調印した時には経営改善の兆しが見えていたスチュードベーカーだったが、1954年の実績は悲惨なほど落ち込み、同じく経営難にあった名門のパッカードと合併し、起死回生を図ろうとしている時期にあった。それに先立つ1953年には、ローウィのスタイリングによる新しいスターライナーを発表したが、専門家には好評だったものの、販売ははかばかしいものではなかった。

結論から言えば、ポルシェ設計のスチュードベーカーは生産化が見送られた。その大きな理由のひとつは、V6エンジン生産など、まったく新しい生産設備を構築するだけの資金がスチュードベーカー・パッカード社にはなかったことだ。実現されれば、スチュードベーカー・ポルシェZ-87のネーミングになっていたという。エンジニアのE.L.ナッシュは、ポルシェZ-87が生産化されても、平均的なアメリカ人には、硬めの乗り心地や静粛性などで受け入れられなかっただろうと述べている。その後、ポルシェZ-87と2種の試作エンジンは、サウスベンド工場が閉鎖された1964年に廃棄処分になったという。

タイプ542のリアビュー。生産化の暁には、スチュードベーカー・ポルシェZ-87のネーミングになっていたといわれる。(Porsche Archives)
1950年代前半の北米市場でのドイツ車を象徴する3つのメイク。ポルシェ、メルセデス、VW。ポルシェだけに限らず、メルセデス300SLも、ホフマンの存在なくしては、北米市場でのあれほどの成功もなかったことは間違いない。(Daimler Archives)
エピローグ

ポルシェ側はタイプ542が受け入れられない事態を予想していたかのように、独自の試案を用意していた。それは両社が行った市場調査を具現化したような、正に”アメリカのフォルクスワーゲン”だった。

タイプ633とのコードネームを持つこの小型車は、ノッチバックスタイルの2ドアセダンで、リアに水平対向2リッター4気筒エンジンを搭載、トーションバースプリング方式の独立懸架であった。スチュードベーカーの予算難はともかく、おそらくタイプ633のほうがアメリカ市場で必要とされている、ドイツ製小型車の姿であったかもしれない。

ご承知のとおり、GMのシボレー・ディビジョンは、1960年モデルイヤーでVWビートルに触発されたリアエンジン車(6気筒水平対向2.3リッターほか)のコルヴェアを発売した。それはビートルの成功によって北米市場に形成された小型車市場に投入されたGMの切り札のひとつだった。だが、コルヴェアは大きな成功を収めることなく1969年モデルイヤーでフェードアウトしていった。いわば地産地消を前提としたクルマが一般的であった北米市場では、欧州の影響を受けた北米車は苦戦を強いられたのである。