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自動車技術&文化史探訪

小型車を変え続けてきたダンテ・ジアコーサ、人と作品

フィアット500の設計者として知られるダンテ・ジアコーサ(1905年1月3日~1996年3月30日)。彼が関わった4台の小型車に焦点を当てることで、その足跡を追ってみたい。

TEXT / 伊東和彦 PHOTO / FCA ARCHIVES
500トポリーノはフィアットにとっても躍進の鍵となった。これは小変更を受けた500B。顧客からの要望でソフトトップが標準になった。
1969年、前輪駆動に挑んだ128

暴論だとお叱りを受けるかもしれないが、小型車にとって最大の邪魔者は”嵩張る”エンジンと駆動系だ。コストを抑えるべく、限られた車体寸法の中に最大限の車室空間を得なければならない小型車にとって、エンジン等は小さければ小さいほうがいい。それらが大きければ、乗員のための空間が狭められてしまうからだ。大衆車が普及し始めたばかりの頃には、クルマを持つこと自体が人々にとっての到達目標であったから、多少は車室が狭かろうとも文句は出なかっただろう。だが普及が進めば、人々は窮屈なクルマより、広々として快適な空間を持つクルマを求めるようになる。

そうした顧客の要求のほか、省燃費などの社会的な要求から、小型車の設計者はエンジンや駆動系統の配置に工夫を凝らし、一般的な前エンジン後輪駆動(FR)から、後エンジン後輪駆動(RR)、前エンジン前輪駆動(FFまたはFWD)へと、”車室を狭めない”レイアウトを追い求めてきた。

パッケージングの効率を追い求めた顕著な成功例が、1959年にアレック・イシゴニスがミニ(ADO15)で採用した横置きエンジンによるFFだ。これ以前にもFFレイアウトを採用した例はシトロエン・トラクション・アヴァンを筆頭にいくつかあったが、ミニほど理詰めでスペース効率を追い求めていたわけではない。イシゴニスは、3mほどの全長内に最大限の乗員のための空間を得ようとして、横置きしたエンジンの下側、すなわちクランクシャフトの下方にギアボックスを配置するというコンパクトなFFシステムを考案した。これは一般的にイシゴニス方式と呼ばれている。

これに対して、フィアットのダンテ・ジアコーサは、1964年にフィアット傘下のアウトビアンキ・ブランドのプリムラで、エンジンとギアボックスを一直線に横置きに配置し、ギアボックスの後方にデファレンシャルを配置する、いわゆるジアコーサ方式と呼ばれる前輪駆動レイアウトを試みた。128の場合では、エンジンは車内から見て右側に置かれ、ギアボックスは左側に配されている。巨大企業のフィアットが、一気に前輪駆動方式に舵を切ることの販売上のリスクを避けるべく、まず先に生産規模が小さなプリムラに採用し、経験を積んだとの見方があるが、それは事実だろう。この経験を経て、1969年に発表したまったく新しいフィアット128でこのレイアウトを用い、128が先兵となってフィアット小型車の前輪駆動化が始まっていった。

やがてジアコーサ方式は前輪駆動車の標準として、世界中のメーカーによって採用されることになる。これに対して、イシゴニス方式を採用した例には、BMC系以外ではプジョー204や日産チェリー、ホンダN360などがあるが、世界的に見れば少数派に留まった。その理由のひとつとして考えられるのが、イシゴニス方式はミニのサイズに合わせて既存の4気筒エンジンを搭載しようという、いわば専用設計だったからだろう。

卓越した発想は豊かな”自動車一般教養”か?

ダンテ・ジアコーサの生い立ちから、彼の卓越した発想の源を探ってみよう。ジアコーサは1905年1月3日、父の勤務地であるローマで生まれ、生後間もなくして一家は元々住んでいた土地、イタリア北部ピエモンテ州の小さな町、ネイヴへ転居している。その後、一家は近隣の大きな都市であるアルバに移り、ダンテはこの地の高校を卒業すると、トリノ工科大学の機械工学科に入学。1927年に22歳で大学を卒業すると、兵役に就いて故郷の士官学校へ進み、1928年6月に同校を修了している。

幼いころからクルマに興味を抱いていたというジアコーサの目標は、自動車産業に職を得ることだった。だが、彼が学業を終えた当時のイタリアはといえば、ムッソリーニ政権による通貨リラの厳しい防衛策によって、輸出に頼っていたフィアットが大きな打撃を受けていた。さらに世界的な自動車不況も重なって、フィアットでは大幅な人員削減を実行中だった。この悪い時期に当たったことで、ジアコーサの就職活動には困難が伴ったものの、1928年11月になんとかフィアット傘下の軍用車両事業部であるSPAに製図工として採用された。

その職種ゆえに、入社当時は自ら設計に当たることはできなかったが、フィアットのベテラン技術者で研究部部長の地位にあったチェザーレ・モモに、彼の非凡な才能が認められたことで、1929年5月にモモの秘書を命じられた。モモは自分より30歳ほど若いジアコーサを教育するに当たって、単に設計手法など実務を指導するのではなく、自動車の歴史や、この世界に名を残した先達についての逸話を聞かせたという。1876年生まれのモモは、イタリアにおける自動車発祥の地であるトリノの自動車産業に生きた人たちの多くと親交があり、彼らの人間像を聞かせ、ジアコーサに自動車人としての高い教養と知識を植えつけたのだ。

トポリーノでは、このように全長の短い4気筒エンジンをアクスルより前方に送り出し、広い室内を得ることに成功している。それまでの小型車はエンジンをアクスル後方に搭載していたので、車内が窮屈になっていた。ジアコーサはさらにスペース効率を高めようと、この時期にモノコックボディの可能性を模索していたといわれる。
1936年フィアット500トポリーノ

フィアットのエンジニアリング事業部を統括していたトランキッロ・ツェルビ技師は、製図工のジアコーサを1930年の中頃に自動車エンジン部門に、1932年6月には航空機エンジン部門へと配属すると、同年11月にはその製図部長に任命した。この航空機エンジン部門に配属されたことがジアコーサにとって大きな転機となった。

1933年、ジアコーサの上司に当たる航空機エンジン部門長のアントニオ・フェッシア(1901~1968年)は、ジアコーサに対して、「(社主の)ジョヴァンニ・アニエッリが小型車生産を望んでいる。それは5000リラで販売される安いモデルだ。そのエンジンとシャシーの設計ができるか」と問うたという。28歳の彼は、一も二もなくこの計画に参加した。後年になって、ジアコーサは「フェッシアこそがトポリーノの本当の父親である」としているが、ジアコーサが具体化のための作業の多くを担ったことは明らかである。

フェッシアは、その後、産業車両、航空機部門も担当するフィアット社技術役員の要職に就くという実力者であった。そのフェッシアが、航空機エンジン部門に属し、経験が豊かでない若いジアコーサに、小型車設計を任せるという英断を下した理由は定かではない。おそらく、既存の考えに捕らわれないまったく新しい発想をもって設計に当たらなければ、価格や機構面で求められた要件を満たすことができないとフェッシアは考え、ジアコーサを引き込んだのではなかろうか。それはトポリーノを詳しく見ればおぼろげながら想像がつく。旧来からの小型車開発の手法に従えば、既存のクルマをそのまま縮小するかのような手順であるがため、車室が狭くなることが避けられなかった。トポリーノは前エンジンの後輪駆動車であることには変わりはないが、最小限に留めた外形寸法のなかで、より大きなクルマと同等の洗練されたメカニズムと乗り心地をもたらそうと工夫していることがわかる。まず、専用の4気筒水冷エンジンを前サスペンションより前方に”追放”することで、WB内から”邪魔者”を追い出したうえで、WBを全長に比して長めに取り、思い切りよくシートは2名分として、その後方は用途の広い荷室(想定積載量50kg)としたのだ。結果として、既存のフィアット製小型車とは外観もレイアウトもまったく異なるものとなった。

1936年6月15日に発売された500″トポリーノ”は、安価なことだけが取り柄の”間に合わせ”ではなく、技術的にみても間違いなく傑作であり、信頼性が高く、スタイリングも愛らしく、美的であった。それまで自家用車など手が届かない存在として諦めていた庶民層にも手が届く価格がつけられ、イタリア人の生活と社会に大きな変革をもたらした。

さらにいえば、トポリーノの成功によって、フィアットは自動車量産メーカーへと成長を果たし、イタリアには大衆車の普及という社会経済的な革命が起こった。1936年といえば、フィアットがミラフィオーリ工場の建設を始めた年でもあった。すでに稼働しているリンゴット工場に加え、アメリカのフォードに倣った近代的大量生産方式を採用したミラフィオーリ工場を新設することで、一気に量産体制の強化を図ろうとしたのだった。この積極策はジョヴァンニ・アニエッリにとって人生最後の大事業でもあった。

トポリーノの生産はリンゴット工場が担当し、1936年から1955年までに52万台(4座ワゴン仕様を含む)が生産されるというヒット作になった。ちなみにフィアットは1936年から1937年にかけての1年間で6万6000台を生産したが、それはイタリア全体の自動車生産台数の実に85%に相当するものだった。トポリーノは、登場年の1936年には1万1325台を、1937年には2万1000台が造られている。

1951年の小変更で500Cに進化した際に、4名乗りのトポリーノとして加わったワゴンボディのジャルディニエラ。そのオープントップのベルヴェデーレ。
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