OTHERS

<その他コンテンツ>
ニューカー、ヤングタイマー、クラシック、オーナー、ライフスタイル、
カタログ、100ドロ、ミニカーなどなど
自動車技術&文化史探訪

小型車を変え続けてきたダンテ・ジアコーサ、人と作品

フィアット500の設計者として知られるダンテ・ジアコーサ(1905年1月3日~1996年3月30日)。彼が関わった4台の小型車に焦点を当てることで、その足跡を追ってみたい。

TEXT / 伊東和彦 PHOTO / FCA ARCHIVES
600とヌォーバ500

500トポリーノは、第二次大戦前のイタリアの庶民にクルマによる自由な移動という生活環境をもたらしたが、庶民とクルマの関係をさらに深めたのは、戦後になってフィアットが次々に送り出した小型車、600とヌォーバ500であり、これら2種のモデルによって、イタリアのモータリングの様は激変している。それは戦前にトポリーノが起こした社会経済的な革命より、さらに規模の大きなものだった。1950年代に入ってから、イタリアの経済はめざましく発展し、50年から62年までの間に国民総生産は2倍に達する奇跡的な経済復興を遂げた。この時期に、歴史に残るイタリア車が数多く誕生するのは、こうした好景気が大きく作用していることを忘れてはならないだろう。

1955年に、まったく新しい小型車として送り出された600は、500トポリーノの市場を引き継ぐモデルだが、トポリーノが生まれたころとは状況が変わり、顧客はさらに広い室内空間と快適性を望むようになっていた。社内で順調に昇進を続け、この計画を指揮する立場になっていたダンテ・ジアコーサは、ミニマムなサイズの中に最大限の空間を確保するため、パワートレインをコンパクトに収めることができるリアエンジン・レイアウトを採用することで、市場の要求に応えた。全長(3215mm)とWB(2000mm)は、それぞれ500トポリーノと同一だが、リアに4気筒エンジンを搭載したことで、4人のための快適な室内空間と、静粛性を得ることができた。

1946年に社長に就任したヴィットーリョ・ヴァレッタは、平和になって社会が安定すれば必ずイタリアのクルマ需要が大きく高まるはずであり、戦後のイタリア人の生活を支えてきた2輪車(スクーター)のユーザーがそのまま移行できる小型車が必要だと考えていた。その根拠となったのがスクーター市場の活況ぶりだった。代表格のピアッジオの生産状況を例に取れば、1946年に2500台だったものが、1956年には累計100万台に達したのである。これらが潜在的な4輪車の新規顧客であった。

そこを狙ったフィアットは、600の投入から1年数カ月後の1957年夏にはヌォーバ500を発表した。ヴァレッタは、600より安価な小型車が必要だと考え、その開発段階から、ジアコーサにさらに小型で経済性に優れた小型車を開発するよう指示していた。ジアコーサが計画を率い、エンジンの設計は若いトラッツァ技師に任せたものの、ボディはジアコーサ自身が手掛けた。ヌォーバ500に多くの資料が存在するのでここでは詳細を省くが、リアに空冷2気筒、479ccエンジンを搭載したことで、600よりも24.5cmも短い3mに満たない全長にもかかわらず、4人分のスペースを得ることができた。まさにリアエンジンによって、”ミニマリスト”を追求し、見事にその美点を生かしきった例といえるだろう(私は日本のスバル360と双璧を成すと思う)。ヴァレッタはヌォーバ500がたいそう気に入り、発売当初の売れゆきが鈍いと知ると、自らが通勤に使うことで販売促進活動を行ったという。

1955年に500トポリーノの後継モデルとして登場した600では、リアエンジン・レイアウトを採用。500トポリーノと同一のWBながら、4人のための快適な室内空間を得た。
600から派生した”ミニバン”のムルティプラは、リアエンジンによるスペース効率の高さを遺憾なく発揮した例だろう。2mのWBは600と同一で、全長が30cmほど長いだけで3列シートを実現している。

冒頭に記した128の成功によって、フィアットは”ジアコーサ方式”とよばれる横置きエンジンの前輪駆動車のラインアップを拡大させていく。フィアットにおける前輪駆動車のルーツを探ると、戦後間もない1947年には、ジアコーサは4気筒エンジンを90°ほど前方に傾けて横置きに搭載した前輪駆動車のティーポ100を試作している。ジアコーサは、1959年には自動車エンジニアリング部門の役員に、1966年には自動車事業部の役員に就任。1970年に定年によって退職するが、相談役にとして首脳陣を支えた。その後フィアット資本で産業研究を行う企業グループ、AUTECの社長に就いている。

ジアコーサはフィアット在職中の42年間にわたって、数多くのモデルの設計開発に関与し、乗用車だけでなく、スポーツカー、ガスタービンカーなど多岐にわたったが、その才能は小型乗用車で発揮されたのではなかろうか。

ジアコーサは、1964年にアウトビアンキ・プリムラで、エンジンとギアボックスを一直線に横置きに配置し、ギアボックスの後方にデファレンシャルを配置する前輪駆動レイアウトを試みた。後にジアコーサ方式と呼ばれることになる。
プリムラでの経験に基づいて、フィアットも1969年に128に前輪駆動方式を採用し、大きな成功を収めた。これ以降、ジアコーサ方式前輪駆動車世界中のメーカーによって採用されることになる。128は1970年のCOTYに選出された。2ドアと4ドアのセダン、ステーションワゴン、クーペのバリエーションがあった。
フィアット128。この図からも車室の広さがわかるだろう。プリムラでは前輪が横置きリーフスプリング、後輪はリーフで吊ったリジッドだったが、128では前がマクファーソン、リアもコイル式になった。
新旧の500の間に立つダンテ・ジアコーサ。どちらもイタリアのモータリングの様を大きく変革した小さいが偉大な存在だ。
  発売開始年 全長×全幅×全高(mm) ホイールベース(㎜)/乗車定員 エンジン諸元 販売時価格 生産年/累計生産台数
500トポリーノ 1936年 3215×1275×1377 2000/2名 水冷4気筒 569cc 13bhp/4000r.p.m. 8900リラ(36年トポリーノ)/79万5000リラ(49年ジャルディニエラ) 1936~55年/52万台
600 1955年 3215×1380×1405 2000/4名 水冷4気筒 633cc 22bhp/4600r.p.m. 59万リラ 1955~69年/260万4000台
ヌォーバ500 1957年 2970×1320×1325 1840/4名 空冷2気筒 479cc 13bhp/4000r.p.m. 46万5000リラ 1957~75年/367万8000台
128 1969年 3856×1590×1420 2448/5名 水冷4気筒 1116cc 55bhp/6000r.p.m. 87万5000リラ(2ドアセダン) 1969~79年/350万台以上

1 2