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自動車技術&文化史探訪

軽く、小さく、無駄を省く……庶民のアシができるまで

フィアット500、2CV、ミニ、ビートルは、どれも大きな成功を果たした国民車である。そうした成功作の影に隠れがちな、欧州と日本で試みられた"軽便"小型車開発の挑戦を記してみた。

TEXT / 伊東和彦
住之江製作所が生産したフライングフェザーは、軽自動車開発の先駆的存在であり、最小のエネルギーで実用的な自動車を造ろうという設計思想から誕生した。設計者の富谷龍一氏は、第二次大戦前の1932年から、ダットサンのデザインを手掛けていた日本の工業デザイナーの先駆者で、戦後は住之江製作所でダットサンのボディを設計し、同社でこのフライングフェザーを開発した。これはその販売カタログで、カラー印刷を奢っている。(PHOTO:SH Collection)

このあたりの話題は実に多いことから、本稿では焦点を絞れるだけ絞って、第二次大戦後のドイツとイタリアに触れながら、スバル360誕生以前の日本での小型車開発を核にしてみた。読者諸氏からは、”なんとナローアングルな視点”との声が聞こえてきそうではあるが……。

大戦で敗れたことによって、これら三国の国民は耐乏生活を余儀なくされ、復興の中で苦しみながら工夫を凝らし、さまざまな軽便で安価な”庶民のアシ”を送り出していった。しばしば”バブルカー”と呼ばれるそれは、2輪車のように雨に濡れることにない、安価なクルマを求めた人々によって重宝がられた。だが、経済状態が上向くとそれらの役目は終わり、続々と誕生する小型大衆車に追われるように舞台から降りていった。まさに泡のように巻き起こり、泡のように消えていった。

イタリアの場合

戦前からフィアット500トポリーノという、 絶対的な存在の小型車を持っていたイタリアだったが、戦後間もない時期の庶民にとって最も手が届きやすい現実的な足といえば、ベスパやランブレッタなどの小型スクーターだった。こうした経済・社会状況の中、”旧新”フィアット500の狭間にイソ・イセッタが出現した。

イセッタを製作したのは、家庭用冷蔵庫などの生産を手掛けて成功した、イソテルモス社であった。創業者のレンゾ・リヴォルタは、平和な時代が訪れると、庶民の足となる小型2輪車の需要が高まることを予見し、それらの生産それらの生産に転向をはかった。豊かな財務基盤を背景に、イソ製2輪車は、1952年にはヴェスパ、ランブレッタに続く業界3位の座に着くまでに成長を果たした。2輪以外にも3輪の超小型商用 車を手掛け、好評であったことから、1953年には超小型車のイセッタを発表した。イセッタは、”安かろう、悪かろう”という利潤だけを追い求めた粗悪なクルマではなく、高い理念で設計された良質な超小型モビリティーであった。設計者は、グライダー設計者として名を馳せ、後にミラノ理工科大学教授を務めた エルメネジルド・プレーティである。彼は、グライダー設計で培った軽量構造と空力の知見を注ぎ込み、全長2250×全幅1340×全高1320mm、ホイールベース1500mmの”たまご型”サイズ内に、大人2名分と小さな子供を1名収容できるスペースを収めることに成功した。そのスタイリングゆえに、フロント部分が大きく開口するドアを採用したことが大きな特徴になっている。エンジンは自社製のダブル・ピストン型2サイクルで、236ccから4500r.p.m.で9.5psの最高出力を発揮した。3輪車のようにも見えるが、後輪のトレッドが520mmと狭い四輪車で、後輪をチェーン駆動した。

ヌォーバ500の開発を急いでいたフィアットはイセッタを高く評価し、その存在を脅威に感じ、”価格が安くなれば、大きな成功を納めただろう”と評したといわれている。だが、イセッタは2輪車ユーザーにとっては高価すぎたために、売れゆきは低調で、1954~56年のイタリア国内での販売台数は1500台ほどに留まった。

だが、イタリア庶民の心を掴むことはできなかったが、イソ社がライセンス供与という収入の方法を選んだことで、フランス(ヴェラム)や イギリス、スペイン、ドイツ、南米ではブラジル(マキナス・アリコラ ス・ロミ)で続々と生産されることになった。

ドイツの場合

イセッタのライセンス生産で最も成功した例が、1955年からBMWイセッタの名でライセンス生産を開始 したBMWであった。イタリア以上に戦争の被害が大きかったドイツでは、復興のために小型で安価なクルマが求められていたからだ。おそらく世界で最も多種多様な バブルカーが誕生したのはドイツであろう。

高級車によって戦後の活動を再開した当時のBMWには、経営的には量販が期待できる、国情に合った大衆車が必要であった。BMWは機構的にはイソ・イセッタのオリジナルを踏襲したが、エンジンをBMW自身のR-25用単気筒4サイクル245ccユニットに換装。独立式のフロントサスペンションをラバーから金属コイルスプリング式に改め、ウインドウやヘッドランプなど外観のデザインを変更したうえで、BMWイセッタ 250として発売した。パワーは12ps/5800r.p.m.と1.45kg-m/4500r.p.m.とイソより僅かにパワフルになった。

さらに1956年には、排気量を298ccに拡大し、13ps、1.88kg-mとパワーの増強を図ったイセッタ300 を投入している。価格は250が1955年の発売当時にDM2580、300は1956年発売時にDM2920だが、VWビートルのスタンダードモデルは DM3790(1955年8月)であったから、だいぶ安価であった。BMWイセッタは1955~’62 年までの間に250と300の累計が約16万2000台に達するという大ヒットとなった。

もうひとつのドイツにおけるバブルカーの象徴的な存在が、メッサーシュミットKRだ。同社は、第二次大戦中のドイツでは有名な飛行機メーカーであり、戦闘機に注力していたことから工場は激しい爆撃で破壊された。終戦によって軍用機の生産ができなくなったことで、活路を見いだしたのが超小型車生産であった。”KR”とはカビネン・ローラーの略で、キャビン付きのスクーターという意味だ。

1953年にはKR175が完成、’55年にはKR200が誕生した。設計者は、飛行機の設計に当たっていたフリッツ・ヘントフ技師で、彼が手掛けたエンジン付き車椅子を見たウィリー・メッサーシュミット社長が、超小型車の製品化を思いついたといわれている。コクピットの両側に構造材が備わる構造上、一般的な開口方法のドアが設けられないため、飛行機 (メッサーシュミットBf109戦闘機)のように一体で開くキャノピー型ドアを用いている。後期型のKR200では、空冷2サイクル単気筒エンジンが 200ccとなって 10.5psを発揮、 最高速は90km/hに達した。10年ほどで40万台が販売されたというから、成功作と言ってよいといえよう。 また、同じく爆撃機で知られるハインケルも 自動車生産に転向し、まずスクーターを手掛けると、1955 年にはバブルカー生産に乗りだした。それはイセッタに極めて似たレイアウトを持つモデルで、1958年にはアイルランドのメーカーによって、トロージャンの名で生産された。

ドイツで成功したバブルカーの代表格の1台、メッサーシュミットKR。これは200ccエンジン搭載のKR200ロードスター。ドイツの短い夏を楽しむ様子をKRで表現したのだろうか。(PHOTO:SH Collection)
メッサーシュミットKRは車体の形状から通常のドアを設けることができず、このようなキャノピー型を採用している。タンデム2名乗も独特だ。(PHOTO:トヨタ博物館)
ドイツで成功したバブルカーの代表格のもう1台、BMWイセッタ。いかにも寒そうな雨のなか外出する様子を示すことで、2輪車では望めない快適な移 動手段を謳っているように見える。(PHOTO:BMW Archives)
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