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自動車技術&文化史探訪

アバルトの"蠍力"とはフィアット傘下での
コンペティション・アバルト

かつて筆者は、今までと違った視点から“フィアット期”のランチアに触れてみたいと記した。今回はその言葉通り、ランチアを中心にして、フィアット傘下に入ったアバルトか開発を担ったラリーマシンに焦点を合わせてみたい。

TEXT / 伊東和彦

アバルトはフィアット・グループに
とって欠かせない存在

レギュレーションの変更により、たった1シーズンしか本領を発揮することができなかったが、ランチア・デルタS4は、フィアットが総力を挙げて開発した、究極のグループBカーといえよう。これはその中核ドライバーであったミキ・ビアシオン。

1956年から創業家からランチア社の経営を引き継いだペゼンティ家だったが、会社の経営状態を大きく改善させることができず、極度の財政難に悩んだ末、1969年にフィアットの傘下に入る道を選んだ。また、1971年の末には、カルロ・アバルトは自身の会社をフィアットに譲り渡した。この結果、フィアットにはモータースポーツに多くの歴史を刻んだふたつのメイクスが加わり、レース活動で相乗効果が生まれることになった。

フィアットの人脈力

フィアットはランチアを建て直すべくいくつかの方策を講じたが、なにもかも切り捨てる合理化ではなく、コンペティション部門の強化も図られたことは興味深い。そのキーマンとなったのが、フィアットがランチアに派遣したピエルゴ・ゴッバート技師だ。彼は生産部門の専門家でもあり、リンゴット工場をまとめ上げた実績があった。ピエルゴの父、ウーゴ・ゴッバートは1930年代にアルファ・ロメオの社長を務めた人物で、その時期に同社のモータースポーツ活動を担っていたのがエンツォ・フェラーリだった。1965年には、エンツォ・フェラーリが自社の経営建て直しのために、フィアットに対して、社内で頭角を現していたピエルゴ・ゴッバートの派遣を依頼したという経緯がある。

1971年某日、ピエルゴ・ゴッバートはランチアのコンペティション部門を率いるチェザーレ・フィオリオと一緒に、エンツォ・フェラーリに面会するためマラネロへ向かっていた。ラリーフィールドで台頭著しいアルピーヌA110に対して、フルヴィアHFの戦闘力低下が著しかったランチアは、新たにラリー専用マシン用を製作すべく、そのエンジンとしてフェラーリのディーノV6、2.4リッターに白羽の矢を立てた。だが、ランチア内にフィアットから送り込まれたスタッフ達はこのラリーカー計画自体に触れたがらず、フィアット社自体も、自社のラリー活動にとって大きな脅威となる計画と考え、真っ向から反対していた。すぐにでも叩きつぶしたいと考えていてもおかしくはない。ランチア自身でその状況を打開するには、強い影響力を持つエンツォに支援を求める以外に方法はなかった。

ランチアからの提案をエンツォが快諾したことで、ストラトス計画が実現可能となった。フィアットにとっては、さぞかし面白くない展開になったことだろう。さらに元フェラーリのドライバーのマイク・パークスがランチア・レパルト・コルセに加わり、操縦性の開発に力を注ぎ、結果としてストラトスはサーキットマシンのような操縦性をもたらした。

ストラトスは1974年から3年連続して世界選手権タイトルを手中に収めると、77年とGr.4のホモロゲーションが切れる最終年の78年には欧州選手権のタイトルを得た。チームの中核に成長したサンドロ・ムナーリは、1975、76、77年のモンテに勝ち、メジャーなラリーでは全勝という快挙を成し遂げた。これこそフィアットの人脈が発揮された、顕著な好例だろう。

フィアットにおけるアバルトの仕事

アバルトの存在が色濃いフィアット・アバルト124ラリーは戦闘力の高い優れたラリーマシンだが、同じグループ内のランチア・ストラトスがその前に立ちはだかったことが、惜しまれる。

ストラトス計画が動き出したころ、1971年にアバルトを買収したフィアットは、68年のレース復帰以来、鳴かず飛ばずの状態にあったコンペティション部門の強化を図るべく、経験の豊かなアバルトにモータースポーツマシン開発を任せる決定を下した。翌年早々にはフィアットのワークスレース部門がコルソ・マルケ72番地のアバルトへ移転し、作業が始まった。買収後初の例となったのが、世界ラリー選手権への参戦を目的としたフィアット・アバルト124ラリー(SE026)計画で、1973年のジュネーブ・ショーで一般公開された。アバルトの仕事を知るべく、その概要を簡単に記しておきたい。

既存の124スポルト・スパイダーをベースにしたクルマだが、最も顕著な変更点はリアサスペンションをノーマルのリジッド式から独立式に変更したことだ。さらにホモロゲーション公認重量を減らすことが大きな命題で、前後の開口部をFRPパネルに置き換え、一部の鋼板を薄くするなどの軽量化を施し、938kg(スポルトスパイダーは995kg)とした。合わせてギアボックスを5速型に置き換えている。だが、エンジンは標準と同じDOHCの1756cc(84×79.2mm)ユニットながら、2基のウェバーを備えるなどして10bhpアップの128bhpに留めている。

出力の向上は僅かだが、これはGr.4(特種GT)のホモロゲーション取得のための生産義務(連続する12カ月間に400台以上)を果たすためのストリートバージョン(ストラダーレ)の公称値であり、実戦投入の際にはアバルトによって更なるパワーアップが図られたことは言うまでもない。究極的には1974年に登場したシリーズIIでは、アバルト特製のティーポ236と呼ばれる16バルブヘッドが組み込まれ、1839ccから210bhpを得ている。ストラダーレの生産台数はホモロゲーション取得のための初期ロットが500台超、その後に500台が追加生産されたという記録がある。莫大な開発費を投じている以上、ホモロゲーションモデルの完売は欠かせない。

フィアット・アバルト124ラリーがGTのホモロゲーションを取得するために、ストラダーレが製作された。これは発表当時の広報写真。フェンダーにアバルトのロゴとエンブレムが備えられている。

ノーマルのスポルト・スパイダーとの最も大きな変更点は後輪独立懸架だ。リジッドアクスルだったものを、逆Aアーム(デフ側にAアームの頂点を置くことからこう呼ばれる)で位置決めし、パナール・ロッドを組み合わせている。前輪はダブルウィッシュボーンを継承しつつラジアス・ロッドを追加した。

デビュー戦となったのは、1973年のモンテカルロ・ラリーだったが、4台のワークスカーのうち7位が最高位で、3台はリタイアに終わっている。初優勝を上げたのは第7戦のポーランドで、同年のメイクス・シリーズ・ランキングは2位と初年度ながら好成績でシーズンを終えている。1974年にはホモロゲーションを再取得してGr.3(GT)となり、開幕戦のポルトガルで1~3位を独占するという好成績を残した。だが、この年には、前述したランチア・ストラトスの実戦投入が始まったことで、124ラリーの戦闘力不足は否めず、1974年と75年のメイクスは2位に甘んじるしかなかった。ワークスカーとしての124ラリーは1976年モンテカルロまでで、6月モロッコからは新開発のフィアット131アバルト・ラリーが投入されることとなる。

フィアットの量産車である131ミラフィオーリが次なるラリーカーのベースになった。開発はアバルトだが、ストラダーレの製作はカロッツェリア・ベルトーネが担当した。大きなオーバーフェンダーや空力付加物が実用車を“マシン”に変貌させている。エンジンフード、フェンダー、トランクリッドにFRPを用い、ストラダーレで980kgとしている。

131アバルトでもアバルトの本領が発揮され、ファミリーカーの131をベースにコンペティションカーを仕立て上げた。これが開発された経緯には、ストラトスが勝ってもフィアットの業績向上にはあまり貢献しなかったことがある(ストラトス自体の販売もはかばかしいものではなかった)。

131ラリー・コルサ。自社ブランドのオイル、OLIO FIATのイメージカラーに塗られ、サイドには看板量販モデルの131ミラフィオーリと書かれている。フロントスポイラーにはFIAT ABARTHとある。まさにフィアット・グループそのものだ。

131を名乗るが、エンジンは132用の1995cc DOHCをベースに4バルブヘッドを備え、ストラダーレでは140bhpを発揮、ラリー仕様のコルサでは究極的に230HPに達した。後輪懸架は124ラリーの進化系で、生産型とはまったく異なる鋼管製だ。

簡単に言えば、首脳陣はフィアット・ブランドのクルマが勝ったほうがいいと判断した。それを見越していたのか、1973年には、アバルトではミッドエンジンのフィアットX1/9をベースにした、X1/9 1800プロトティーポの計画が進行中だった。132サルーン用エンジンをベースにアバルトが手を入れた4気筒1839ccエンジンを横置きし、ランチア・ベータ・モンテカルロ(X1/2 0)のトランスアクスルなどのパーツを組み込んだX1/9のコンペティション仕様だ。1974年にはそのプロトタイプがラリーとサーキットレースで高いポテンシャルを示したことで、具体化が急がれた。

1975年には、X1/9 2000ストラダーレとしてホモロゲーション取得のために500台の生産が準備され、その分のパーツを揃えたうえで、組み立てのゴーサインを待つばかりになっていた。だが、フィアット首脳陣はその生産中止を決定した。理由はX1/9は1台売れる毎に64ドルの赤字を計上していたからだという。その代替案として、フィアットの量販車である131のアバルト版が企画され、生産はX1/9 2000をキャンセルされた埋め合わせとしてベルトーネが担当した。そして、ランチアがフィアットのモータースポーツ政策の決定によって、各メイクの担当分野が決まり、ランチアがラリーから退き(1978年に完全撤退)、アバルトがラリーの担当となって1976年6月のモロッコから131アバルトがワークスによって実戦に投入された。車重が重いうえに空力的にも不利が否めない131だが、ラリーでは成功を収めたことはご承知のとおりだ。

1975年フィアット・アバルト131/031ミラフィオーリ3500ベルトーネ。124ラリーの後継型として試作されたSE031と呼ばれるプロトタイプ。1975年のジーロ・ディタリアで優勝した。エンジンはフィアット130用の3リッターV6をアバルトが3.5リッターに拡大し、270bhpに仕立てている。

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