OTHERS

<その他コンテンツ>
ニューカー、ヤングタイマー、クラシック、オーナー、ライフスタイル、
カタログ、100ドロ、ミニカーなどなど
COLUMN

キープコンセプトに隠された
新型クリオの意味
ANTHONY LO & RENAULT LUTECIA

香港に生まれ、さまざまなメーカーで経験を積んできたアンソニー・ローが、ルノーのエクステリア責任者となって10年ほどになる。新型クリオ(日本名ルーテシア)がデビューしたのを機会に、筆者にとっては旧知の彼に過去と現在を存分に語ってもらった。

TEXT / 千葉 匠 PHOTO / 佐藤靖彦
SPECIAL THANKS / ルノー・ジャポン(https://www.renault.jp/

いささか旧聞だが、2019年3月のジュネーブ・ショーでアンソニー・ローに会った。ルノーのブースでたまたま顔を合わせ、問わず語りの話題はもちろん、デビューしたばかりの新型クリオ(日本名ルーテシア)。少し立ち話をしたところで、「記事にしたいから、後で時間をとってくれない?」と問うと、「ちょっと待ってて。広報担当に確認してくる」。そしてすぐに戻ってきて「OKだよ」。

筆者が彼に初めて出会ったのは、25年ほど前のこと。某デザイン専門誌の取材で、メルセデスが横浜に開設したデザインセンターを訪れたとき、若き日のアンソニーが何かと気を遣ってくれた。彼はそういう人。2010年からルノーのエクステリアデザイン責任者を務めているが、そんな要職にあっても、誠実で、気配り上手なキャラクターに変わりはない。

アンソニー・ロー●グループ・ルノー エクステリア責任者
1964年、香港生まれ。香港工科大学で工業デザインを学んだ後、子供の頃からの夢を追求すべくロンドンに留学。ロイヤル・カレッジ・オブ・アート(RCA)でカーデザインを学び、1987年にロータスでカーデザイナーのキャリアをスタートした。1990年にアウディに移籍し、1993年から2000年までは当時横浜にあったメルセデスの先行開発スタジオで働いた。その後はサーブとGM ヨーロパで先行デザインのディレクターを歴任。2010年にルノー移って現職(役職などは取材時のものです)。

キャリアのスタートはロータス

アンソニー・ローは1964年、香港で生まれた。「子供の頃からカーデザイナーを志していた」が、地元にそれを専門的に学べる学校はないので、香港工科大学で工業デザインを専攻。さらにロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アート(RCA)に留学してカーデザインを学び、1987年にロータスに就職した。

当時のロータスのデザインディレクターは、後にマクラーレンF1をデザインするピーター・スティーヴンス。他にもジャガーの現デザインディレクターのジュリアン・トムソン、キャデラックやインフィニティで活躍したサイモン・コックスが、まだ若手デザイナーとして在籍していた。

「小さな組織で素晴らしい才能に囲まれ、彼らから多くを学ぶことができた」とアンソニーは振り返る。そんな刺激的な環境のなか、彼はロータス・カールトン(初代オペル・オメガの高性能版)のデザインを担当。さらにいすゞの1989年ショーカー、4200Rの開発にも参画した。

ロータスもいすゞもGM傘下だった時代だ。その縁で、いすゞの欧州デザインオフィスにいた中村史郎が、ロータスにショーカー開発の協力を求めたのである。それから歳月を経て、中村は1999年にいすゞから日産に移り、提携先のルノーには2010年にアンソニーが移籍。「カーデザインは狭い世界だね」と、アンソニーは笑う。

そうやってロータスで充実した日々を過ごしていたある日、アンソニーは上司のスティーヴンスから呼び出された。「仕事で何か失敗してクビにされるのかと思ったら、アウディのマーチン・スミスの電話番号を渡された」。スティーヴンスはアンソニーに、「ロータスは小さな会社だ。ここですべてを学ぶことはできない。カーデザイナーとして成長したいなら、大きな会社で働いたほうがよい。マーチンに電話すれば、仕事が待っているよ」と語ったという。

転職は1本の電話から始まる

1990年、アウディに移籍。1991年東京モーターショーでデビューしたスーパースポーツコンセプトのアヴス、初代A4 などのデザインに携わると、今度はメルセデスがアンソニーをリクルートした。メルセデスからスバルに移って2代目レガシィをデザインしたオリヴィエ・ブーレイがメルセデスに戻り、1993年に横浜にデザインセンターを開設。そのメンバーとして、アンソニーに白羽の矢を立てたのだ。

横浜で7年を過ごす中でアンソニーは、1996年ショーカーのF200、W221型Sクラス、1997年のマイバッハ・コンセプトなどのデザインに参画。途中で上司がブーレイからミヒャエル・マウアー(後にポルシェのデザインディレクターへ就任)に交代した。

マウアーは1999 年にドイツに帰任した後、翌2000年にサーブのデザインディレクターに就任。「彼から電話があって、一緒にやろうと誘われた」というアンソニーは、横浜からスウェーデンに渡った。

「サーブをユニークなスカンジナビア・ブランドに育てる計画だった。ボルボがいまポールスターで進めているようなことをやろうとしたけれど、タイミングが悪かったね」

それでもアンソニーは先行デザインの責任者として2001年の9-X、2002年の9-3X、2006年のエアロXなどのコンセプトカーを担当。マウアーが2004年にポルシェに移ったのに伴い、マウアーが兼任していたGMヨーロッパの先行デザイン責任者に昇格した。

「2006年にドイツのリュッセルズハイム(オペル)に拠点を移し、そこでサーブのデザインも行っていた。サーブについては建設的な議論もあったけれど、2008年の経済危機でGM がサーブを手放したので……」

そして2010 年、ローレンス・ヴァン・デン・アッカーから電話がかかってきた。「転職はそうやって起こるものなんだ。誰かが電話してくる。私はデザイナーとしての自分の直感を信じた。ルノーに行くべきタイミングだと考えたのだ」。ルノーではデザインのトップを長く務めたパトリック・ルケマンが引退し、そこに2009 年、マツダのデザイン本部長だったローレンスが就任。それからまもなくエクステリア責任者のティエリー・メトロスがPSAに転職したため、ローレンスはその後任にアンソニーを選んだのである。

1991年東京モーターショーでデビューし、センセーションを巻き起こしたアウディ・アヴス。W型16気筒をミッドシップするスーパースポーツのコンセプトで、アンソニーはチームの一員としてエクステリアデザインに貢献した。

アンソニーが横浜のメルセデス・デザインセンターで働いていた時の代表作、W220型Sクラス。横浜で原案が作成された。

W220型Sクラスを予告するコンセプトカーとして、このF200が開発された。

サーブ時代にアンソニーがデザインした一連のコンセプトカーのなかでも、高く評価すべきは2006年のエアロXだろう。サーブの航空機の伝統とスカンジナビアン・デザインを融合させ、シンプルながらドラマチックなデザインを実現。V6ツインターボは400psを発するが、エタノール燃料を使うエコカーでもあった。

1 2